「野党は批判ばかり」という批判

マスコミや自民党が「野党は批判ばかり」と批判します。確かにそういう時もありますが、誤解に基づく場合も多いです。大雑把にいうと、「野党は批判ばかり」という批判は、9割がた無視してよいと思います(1割程度は真理があることもあります)。

私の9年数か月の「国会対策畑」の経験からいうと、野党が対案を出してもほとんど報道されません。よほどのことがない限り、野党の対案はよくてもベタ記事止まりです。ベタ記事でも報道されればマシな部類に入ります。

政治の世界では「報道されないことは、存在しないのと同じ」という法則が働きます。地道に対案を出しても、世間に知られることは少なく、「野党は批判ばかり」という常套句につながります。野党の対案の存在すら知らない人が大半でしょう。知らないので「野党は批判ばかり」という批判を鵜呑みにしてしまいがちです。

重要法案の対案であれば、マスコミも多少は報道してくれます。しかし、「対案主義」の怖いところは、対案を出すと審議入りを拒むことが難しくなります。いまの国会では衆参ともに与党が3分の2の議席を有しており、国会で審議に入れば確実に可決に持ち込めます。対案を出して、次から次に法案審議に応じていたら、次から次に法案が可決成立します。

そもそも問題のある法案であれば、ノーというだけでも「対案」といえます。たとえば、憲法違反の安保法制に関し、無理して対案を用意する必要などありません。「対案主義」で無理して法律案をつくろうとしたら、相手の土俵に載せられるだけです。相手の土俵にかんたんに載らず、時間稼ぎで審議未了廃案に持ち込むというのは、野党の数少ない抵抗手段のひとつです。

また、野党が批判しなかったら、いったい誰が批判するのでしょう。大手新聞の一部は大本営発表のような提灯記事ばかり書いています。民進党の悪口は喜々として書き立てるくせに、政権与党の失敗はスルーするようなメディアもあります。野党もマスコミも健全な批判的精神をもって政権与党を監視し、問題点を指摘し批判することは健全だと思います。

私の言葉では説得力がないので、気鋭の政治学者の待鳥聡史氏の文章から引用すると;

“対案”提示は政策路線の宣伝以外に効力なし

野党にはしばしば、対案を提示すべきだという批判が向けられる。だが、政策決定が単独政権タイプである以上、対案の提示は野党、とりわけ民主党のような大きな野党にとっては、自らの政策路線の宣伝以外の効果はなく、多くの個別法案において無益である。

対案が法案の全面的な修正案を指すのであれば、取り入れられる可能性はない。与野党対決を生み出している法案の場合、事前の与党内部や内閣法制局との調整に多大な労力と時間が費やされているため、それとの整合性を維持できる範囲でしか修正はできない。

対案がごく限定的な部分修正を指すのであれば、有権者へのアピールとしては弱すぎて効果がない。それどころか、修正した以上は法案に賛成せねばならないために、中途半端な妥協をしたとしてマスメディアや支持者からの批判を受ける恐れさえある。

ということです。

*ご参考(2015.11.30付ネット配信記事):

抵抗政党としての民主党—「対案」と「廃案」の間で
政権与党であった民主党の安保法制反対運動への「無責任」な相乗り―その政治的背景を分析し、野党第一党として今後残された唯一の選択肢を提示する。

これが国会対策の実務経験者の私と新進気鋭の政治学者の待鳥氏の一致した見解です。

そして待鳥氏もおっしゃっていることですが、個別案件への「対案主義」ではなく、「与党の政策路線に対する総体的な代替案を練り上げていくこと」(待鳥氏)が大切です。

私がいつもしつこくいっている「ビジョン」や「めざす社会像」を真剣に議論し、世論に訴えていくことが、野党の最重要の「対案」だと思います。とりあえず個別法案に対する「対案主義」は避けた方が無難でしょう。「野党は批判ばかり」批判に惑わされる必要はまったくありません。