歴史認識の誤りが次の戦争を生む

外国の識者の客観的視点から見ると、日本人の歴史認識に関しては政治的スタンスの右の人も左の人も反省すべき点があるようです。

マクレガー・ノックス元ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授(国際関係史)は「戦略の形成」のなかで次のように述べます。

イデオロギー上の継続性やその他の多くの部分で、日本は1945年以降のドイツよりも1918年以降のドイツに類似している。

ここでいう「1918年以降のドイツ」は第二次世界大戦に向かうドイツです。一方で「1945年以降のドイツ」は平和的な欧州統合に向かうドイツです。日本は前者に似ているという恐ろしい指摘です。

マクレガー・ノックス氏のいう「1918年以降のドイツ」とは、第一次世界大戦を引き起こした反省がまったくなく、戦争に負けたのもユダヤ人や共産主義者がドイツ国内で裏切って「背後から刺した」せいだという認識に立つドイツのことです。「1918年以降のドイツ」イコール「反省していないドイツ」です。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の間(戦間期)のドイツは、ワイマール憲法という当時世界一民主的な憲法の下の議会制民主主義の国でした。にも関わらず、ナチスの台頭をまねき、ユダヤ人を虐殺し、二度目の世界大戦を引き起こしました。

復讐心に燃える「1918年以降のドイツ」が生んだのがヒトラーです。ヒトラーという一人の人物の存在だけが第二次世界大戦を引き起こしたとは思いません。当時のドイツの世論がヒトラー政権が生まれる土壌をつくったのだと思います。ヒトラーがいなくてもドイツはフランスやポーランドに侵略していた可能性が高いと思います。

マクレガー・ノックス氏は次のように書きます。

戦争中の中国、東南アジア、太平洋における日本の残虐行為はオーウェル的な表現を借りれば、「事実に仕立てられた虚偽(un-facts)」であるとされる。広島・長崎信仰に体現される日本の平和主義は明らかにナショナリスティックな要素を内包している。平和主義の信奉者にとって、他のすべての側面と同様、日本は犠牲者としてもユニークな存在なのである。

また、ジャレド・ダイアモンド氏は「危機と人類」のなかで、UCLA(カリフォルニア大学LA校)の日本人留学生の多くから聞いた話を総合して次のように書きます。

日本の学校の日本史の授業では、第二次世界大戦についてほとんど時間を割かないといい、侵略者としての日本についてはほとんど、あるいはまったく触れないし、何百万人もの外国人や日本の兵士と民間人の死についての責任よりも、むしろ被害者としての日本(原爆によって数十万人が殺されたこと)を強調し、日本が戦争をはじめるように仕向けたとしてアメリカを非難するという。

ジャレド・ダイアモンド氏の指摘がどこまで事実かわかりませんが、米国を代表する学者・評論家がこのような認識を持っていることを知っておく必要があります。「認識」は重要です。日本は、戦争の「被害者」としての側面を強調しすぎて自己憐憫に陥ってしまい、日本が戦争を引き起こしたという「加害者」としての責任から目を逸らしている、とジャレド・ダイアモンド氏は指摘します。

もちろん広島・長崎の原爆や東京や福岡の大空襲の被害を語り継いでいくことは大切です。しかし、それだけで終わってはいけません。日本軍が中国やフィリピン、インドネシアで行ったことを知る必要があります。

たとえば、「インドネシア独立戦争に日本軍兵士が多数参加し、インドネシアの独立を支援した。だからあの戦争はアジア解放の戦争だった」と正当化する人もいます。しかし、数十万人のインドネシア人を犠牲にした後で、おそらく2千人ほどの旧日本軍兵士が軍を脱走して自発的に対オランダ独立戦争に参加したからといって、戦時中の日本軍の罪が許されるわけではありません。独立戦争に個人的に参加した旧日本軍の兵士は立派だし尊敬すべき人たちですが、日本国の「国家としての意志」ではなく、勇気ある「個人の意志」です。太平洋戦争を日本国による「アジア解放の戦いだ」というのは言い過ぎです。

マクレガー・ノックス氏の「1918年以降のドイツ」に日本が似ているという指摘は、国際社会では「日本は戦争を反省していない」という見方が強いことの証左です。さらに日本の歴史修正主義者の見解が国際社会で報道されると、その見方がさらに強化されます。非常に危険です。

他方、「1945年以降のドイツ」は、ナチスドイツの戦争犯罪を率直に謝罪し、フランスやポーランドなどと和解し、EUという壮大なプロジェクトを前に進めました。おそらく予測できる近未来にドイツとフランスやポーランドが戦争するとは思いません。見事な戦後処理です。

シンガポールの故リー・クアンユー元首相は次のように述べました。

ドイツ人と異なり、日本人は自分たちのシステムのなかにある毒を浄化することも取り除くこともしていない。彼らは過去の過ちについて自国の若者に教えていない。橋本龍太郎首相は第二次世界大戦終結52周年(1997年)に際して「心からのお詫び」を、同年9月の北京訪問時には「深い反省の気持ち」を表明した。しかし、中国や韓国の国民が日本の指導者に望むような謝罪はおこなわなかった。過去を認め、謝罪し、前に進むことを日本人がこれほど嫌がる理由が、私には理解できない。

日本軍占領下のシンガポールを経験したリー・クアンユー首相の指摘は重いです。自己憐憫や主観的自己正当化から逃れ、「1945年以降のドイツ」と同様に「反省する日本」にならなければ、日本の将来の安全保障があやういと思います。

ジャレド・ダイアモンド氏は国家が危機に対処するための条件のひとつに「責任を受け入れる。被害者意識や自己憐憫、他者を責めることを避ける」ことを挙げています。

戦後の日本人と日本国は、侵略戦争を引き起こした責任を受け入れ、被害者意識や自己憐憫に陥るのを避け、他者を責めるよりも率直に謝罪すべきだと思います。その勇気と自制心がないと、「1918年以降のドイツ」と同じようにもう一度戦争を引き起こしてしまいます。自らの誤りを認めることができるのは、弱さではなく強さであり、勇気の証だと私は思います。

歴史修正主義的な視点を世界にばらまく「右側」も問題ですが、平和主義者の「左側」にも問題があるというジャレド・ダイアモンド氏の指摘を真摯に受けとめる必要があります。侵略者としての加害の歴史も歴史教育で若い世代に教えていかなければならないと思います。グローバルな時代に世界で活躍する日本人を育てるには、小学校で英語を教えるよりも、歴史の教訓をきちんと教えるのが先です。

私は、日本軍占領時代を知るお年寄りの多くが存命だった四半世紀前のフィリピンに留学しました。その時の経験をふり返ると、日本が戦時中にフィリピンに与えた被害を知らずしてフィリピンに行くべきではないと思いました。ある高校の先生に「フィリピンに行く前に大岡昇平の『レイテ戦記』くらいは読んでいきなさい」と言われたことがありますが、今になってその通りだと思います。

いまのフィリピン人の多くは戦後の良好な関係のおかげで親日的です。戦後賠償、ODA、貿易、投資、人的交流などのおかげで、日本に対するイメージは好転しました。しかし、フィリピン人が日本軍の占領時代の蛮行を忘れているわけではありません。フィリピンの高校生が使う歴史教科書を見たことがあります。日本軍占領時代の記述がかなりのボリュームだったことに驚きました。

他方で、日本がフィリピンを占領していたことを知らない日本人も多いと思います。フィリピンの高校生は日本軍占領時代のことを詳しく学ぶ一方で、日本の高校生は日本軍のフィリピン占領のことをほとんど知らないと思います。おそらく戦時中に東南アジアや太平洋の多くの国を占領したので「そのうちの1か国」という程度だと思います。しかし、フィリピン人にとっては、スペイン人、アメリカ人の次にやってきた侵略者としての日本人です。フィリピン人が日本の占領を簡単に忘れるわけがありません。日比の間に歴史教育の非対称性が存在します。

戦争の歴史に関しては、被害の歴史も、加害の歴史も、バランスよく知る必要があり、そのための歴史教育が必要です。「外国から見た日本」という視点を取り入れた歴史教育を行い、世界における日本の立ち位置を正確に知ることは、安全保障上も大切です。「1918年以降のドイツ」化を避けるためには、目を背けたくなる過去と真摯に向き合う冷静さと知性、そして勇気が必要です。さもないともう一度戦争を引き起こしてしまいます。

*参考文献:

ウィリアムソン・マーレ―、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、2019年 『戦略の形成(上・下)』 ちくま学芸文庫

筑摩書房 戦略の形成 上 ─支配者、国家、戦争 / ウィリアムソン・マーレー 著, マクレガー・ノックス 著, アルヴィン・バーンスタイン 著, 石津 朋之 著, 永末 聡 著, 歴史と戦争研究会 著
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ジャレド・ダイアモンド 2019年 『危機と人類』 日本経済新聞出版社

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