「学校司書をAIで代替」という誤ったデジタル発想

学校図書館で子どもの読書や学習を支える学校司書の配置増を求める国会決議案が、臨時国会ではあと一歩のところまで行きましたが、最終的に成立しませんでした。自民党から共産党まで党派を超えて賛同を得られた決議案でしたが、唯一「日本維新の会」が反対して全会一致で合意できず、成立が見送られました。

AIで代替できる仕事と、そうでない仕事があります。AIでは代替できない仕事の例としてよくあげられるのが、学校の教員、保育士、看護士、介護士などの対人サービス(対人ケア)の仕事です。AIが業務のアシストをすることは増えるでしょうが、こういった対人サービスは最後までAIで代替されない仕事だと思います。学校司書もそういった対人サービスの仕事のひとつだと思います。

売れ筋の本を本棚に並べるための判断ならAIで代替可能でしょう。しかし、学校の司書というのは、子どもたち一人ひとりに向き合いながら、その子にあった本を一緒に探したり、新しい発見のある本を紹介したり、郷土史や郷土文化などに関する本を購入したりと、子どもの個性や地域の特性にあわせて本を選ぶ、という重要な仕事だと思います。本を選ぶためのカウンセリングというか、コンサルティングというか、そういう人間的な仕事が司書の役割だと思います。AIでは代替できないと思います。

ちょっと前に「AIvs.教科書が読めない子どもたち」という本がブームになりました。AIで学校司書を代替したら、「教科書が読めない子ども」がますます増えると思います。AIにできない仕事ができる人材を育てるには、子どもの頃の読書体験はとても重要だと思います。AIに真似できないセンスや知性を育むには、文学や哲学、歴史、デザインなどにふれることができる読書体験が不可欠だと思います。

AI時代だからこそ、AIで代替できない人材を育成する必要があります。そのためには子ども時代に良い本をたくさん読むことが重要だと思います。AIで代替できない人材は、学校司書をAIで代替したら育たなくなると思います。AI時代だからこそリベラルアーツ的知性が必要とされ、それはAIでは育めないと思います。AI時代だからこそ、AIで代替できない専門性の高い学校司書を正規雇用で確保し、子どもたちの読解力を高める一助とすべきです。

維新の会が主張する「学校司書をAIで代替」という反知性主義的な発想がはびこるようでは、AIに負ける人材しか育たないと思います。AI時代だからこそ、国語力(読解力)が大切で、そのためには学校の図書館の充実や学校司書の確保は必要な投資だと思います。

「日本維新の会」の皆さんは子ども時代に学校の図書館のお世話にならなかったのでしょうか。本を読まないで育った子どもが大人になると、視野狭窄で短絡的な政策論をブレずにつらぬくポピュリスト政治家になってしまうのかもしれません。子ども時代の読書体験、高校や大学時代の教養教育は、AI時代に生き残るために必須の条件だと私は信じています。学校図書館の司書は増やすべきです。プログラミング教育の導入とか、小学校の英語教育の教科化より、学校図書館の充実が先だと私は思います。