教育を考えるシリーズ(3):大学の課題

教育を考えるシリーズの第3弾です。朝日新書「リベラルは死なない」からの抜粋です。

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大学教育の費用

家庭の教育費負担が特に重いのが大学である。国公立大も私大も大学授業料は大幅に増額してきた。かつては国公立大と私大の授業料格差が大きかったが、当時の政権は国公立大の授業料引きあげにより、授業料の格差を縮めてしまった。

背景にあったのは、義務教育ではない大学教育は自己責任であり、受益者負担の原則が望ましいとの政治判断だ。右肩上がりの高度成長期において、大学進学率が今より低く、授業料負担が軽かった時代なら、そのような格差是正策も許容できるかもしれない。しかし、授業料の負担がだんだんと重くなり、所得格差も広がっている現状では、大学の教育費負担を家庭だけに負わせるのはむずかしい。

卒業後に奨学金という名の多額の借金を背をわされる若者の返済苦は、いまや社会問題になっている。家庭の所得格差を子どもの教育格差につなげないためには、大学教育の経済的負担を軽減する必要がある。

知識基盤社会において大学教育の重要性はさらに高まっていくだろう。国際競争力を保つためには、質の高い人材の育成は重要であり、大学教育への投資は不可欠である。大学への公的補助を増やし、大学授業料を大幅に下げる必要がある。大学教育の無償化は、納税者の納得、大学教育の質の保証、大学に進学しない人との公平性の問題など、さまざまな課題があり、すぐには実現しないかもしれない。

しかし、30~40年前と比べて大学授業料は数倍に値上がりしている一方、この20年ほど実質賃金が低下していることを考えれば、大学授業料の値下げは喫緊の課題である。長期的には大学無償化をめざしつつも、すぐに取り組むべきは大学授業料の大幅値下げと給付型奨学金の拡充である。

同時に大学教育への公的支出を増やすのであれば、大学の自治や学問の自由を尊重しつつも、大学教育の質の担保にも力を入れる必要がある。大学教育を受けた人と受けなかった人との公的支出のバランスにも配慮し、専門学校や職業訓練校に対する公的支出の増加も同時並行で進める必要がある。すべての人に質の高い大学教育や職業訓練サービスを受ける権利を保障しなければならない。

 

大学「改悪」をくい止める

国立大学法人化、運営費交付金の削減といった近年の大学改革は、大学の教育や研究に悪影響を与えているとの批判がある。国立大学改革では、大学法人化により大学経営の「自律化」をめざすとされているが、実際には法人化しても、予算のかなり割合が国庫負担であることに変わりがない。学生数により一律に予算が配分されていた時代に比べ、「経営努力」を評価されて予算が配分される方式になり、逆に文部科学省の意向が大学経営により強く反映されるようになったとの指摘もある。

研究助成に関しても、一律配分の研究助成が減少するとともに、競争的な研究助成が拡大し、政府が「将来性がある」とみなした分野に予算が集中する傾向がみられる。また、文科省の官僚や一部の有識者が、「どんな分野の研究に将来性があるのか」を正しく判断できるという前提にも疑問がある。

こうした問題含みの大学改革の結果、大学の自治や学問の自由が損なわれ、官の統制が強化されたり、すぐに利益を生まない基礎研究や人文社会学系学問を軽視したりする風潮が生じている。

基礎研究を軽視することの弊害は、科学技術の振興を阻害することに尽きている。近年ノーベル賞を受賞する日本人研究者が目立つが、彼らがノーベル賞受賞対象の研究をしていた頃の研究助成や研究者育成の方針を再確認し、そこから教訓をくみ取るべきだろう。

ここ数年のノーベル賞受賞者たちが若手研究者だった頃は、産学連携も競争的研究助成もさほど多くなかったはずであり、当時のやり方は全否定されるものではない。日本の科学研究の水準低下が指摘されるなか、近年の競争や効率を重視する研究助成が、本当に効率的だったのか検証する必要がある。

一方、リベラルアーツ的な人文社会学系学問は、国立大学改革では軽視される傾向があり、国立大学の人文系学部は再編を余儀なくされている。変化の激しい時代、AI時代、知識基盤社会だからこそ、リベラルアーツ的な知性の必要性が高まっているにもかかわらず、だ。

狭い専門性にとらわれず、広い視野と柔軟な発想を生むには、教養教育は有効である。「すぐに役立つことはすぐに役に立たなくなる」という言葉もあるように、目先の有用さにとらわれず、自由な思考や発想を育てる大学教育の価値を見なおしていくべきである。安倍政権の教養教育軽視・反知性主義的な大学「改悪」は方向転換すべき時にきている。

 

ランキング至上主義について考える

近年の大学改革の弊害は、大学評価のあり方や指標にも原因がある。安倍政権は「国立大学改革プラン」の目標のひとつを「世界大学ランキングトップ100にわが国の大学10校以上をめざす」とした。そもそも「世界大学ランキング」が評価指標として適切なのか疑問である。ランキング好きの国民性もあるのか、文科省も深く考えずにこの指標を取り入れている節がある。

かつて文科省の担当官に「世界大学ランキングといっても、Times Higher Education(THE)もあれば、クアクアレリ・シモンズ(QS)や上海交通大学のランキングもある。どのランキングのことなのか?」と質問したところ、ハッキリした答えはなく、公式には決まっていないということだった。

THEもQSも英国企業によるランキングであり、どうしても英国や英語圏の大学がランキング上位に来る傾向がある。英語の学術論文の引用数が基準になれば、英語以外の言語で高等教育を受けている国の大学は不利になる。日本、フランス、ロシア、ドイツ等の大学では、母語で博士課程まで勉強できることもあり、英語論文を書く機会が少なくて当然である。

他方、小国ゆえに母語の学術書の市場規模が限られる国の大学は、英語で書かれた学術書を採用し、英語で学会誌に投稿することが多く、英語論文の引用数も多くなる。結果的に英語圏、および、英語が公用語の国(シンガポール、香港等)と小国(スイス、オランダ、スウェーデン等)の大学は、世界大学ランキングの上位を狙いやすい。

さらに世界大学ランキングの評価指標のなかには「産業界からの収入(industry income)」といった無意味な項目があり、国の補助金率が高い日本の国立大学には不利である。国の補助金による教育研究の質が、産業界からの収入による教育研究の質に劣る理由は何もない。おかしな指標である。この指標のせいで東京大学のランキングは大幅に下がっている。

そもそも英国企業が作り出した評価基準が、英国の大学やそれに近い制度を採用するカナダやオーストラリアの大学に有利になるのは当然である。世界大学ランキング入りめざし、英国の評価機関がつくった物差しにあわせて、大学を「改革」する弊害は大きい。

「英語帝国主義」ともいうべき大学ランキングを重視するのはやめるべきである。大学教育の評価基準は日本独自のものであってよい。あるいは、日本がドイツやフランス、ロシア、中国などに呼びかけて、英語圏偏重ではない大学評価基準づくりをリードしてもよいだろう。

 

多様で開かれた高等教育

1990年代以降、労働市場のあり方は大きく変化した。これにあわせて大学のあり方を変化させることも喫緊の課題である。終身雇用の正社員を前提に「企業が人を育てる」という考えが支配的だった時代には、大学教育への期待は低かった。大学入試の合否で示される優秀さのみが重視され、大学で何を学んだかを気にする企業は少なかった。

しかし、雇用が流動化し、企業は長期的な視野に立って人材を育成する余裕を失いつつあり、その反動で大学教育への期待が高まっている。社会のニーズにあった人材を育成するという大学の機能がより重要になっているわけだ。

従来の学部教育や大学院教育だけでなく、職業をもったまま通学できる夜間や週末のコースやインターネットを使った遠隔教育、短期集中型のトレーニングなどの多様なニーズにこたえる大学教育が求められるだろう。それぞれの大学が創意工夫をしながら、知識基盤社会で生きぬく人材を育成することは、国際競争力を維持するうえでも重要である。

また、従来のように高校卒業後にストレートに大学に進学する学生を当然視する必要はない。平均すると先進国では大学新入生の約2割が社会人入学である。それに対し、日本では大学生の社会人入学の割合はわずか2%程度である。

人生のいかなる段階でも必要に応じて大学で学べる仕組みにすれば、親の所得や家庭環境の影響を少なくすることができ、若い頃の教育機会の不平等を回復することもできる。OCEDも18歳以降の学習システムを出入り自由にすることを推奨しており、社会に開かれた大学づくりは重要な課題である。

かつての大学は少数精鋭のエリート教育のための教育機関であった。しかし、同一年齢層の50%以上が大学に進学する現在では、多様なニーズにこたえる多様な大学教育が求められる。世界最先端の研究を専門にする大学院大学から、職業教育に重きを置く大学まで、多種多様な大学が必要である。

その際、多様な大学を官の統制でがんじがらめにすることなく、同時に教育の質を担保するという、両立が難しい課題が見いだされるだろう。大学の自治や学問の自由、社会的ニーズや学生の意志をバランスよく踏まえ、教育格差を解消しつつ、知識基盤社会を支える人材を育成するための大学改革が求められる。

*ご参考:井手英策編著 2019年「リベラルは死なない」朝日新書

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