産業革命期の牧師のイノベーションと研究助成

ナシーム・ニコラス・タレブ氏(文筆家、大学教授、投資家、トレーダー)は、リーマンショックを予測し、「ブラック・スワン」という言葉を流行させた人物ですが、彼が研究助成のやり方についておもしろいことを書いています。

タレブ氏によると、産業革命期のイギリスのイノベーションの担い手は、主にアマチュアの愛好家と牧師だったそうです。トーマス・ベイズ牧師は「ベイズ確率論」を発見し、トマス・マルサス牧師は人口論で有名です。エドモンド・カートライト牧師は力織機を発明。現代考古学の礎を築いたのはウィリアム・グリーンウェル牧師。潜水艦を発明したのはジョージ・ギャレット牧師。菌類の第一人者も天王星の発見者も牧師でした。

タレブ氏は次のように言います。

当時の研究は、かなりの部分が牧師によって行われていた。イギリスの教区牧師は、心配事もないし、博学で、大きな(少なくとも快適な)家があり、お手伝いさんがいて、クロテッド・クリームを塗ったスコーンと紅茶がいつでも楽しめ、自由な時間がたっぷりとあった。

今どきの日本の大学政策では、研究助成において競争的資金の割合が肥大化し、研究者をやたらと競争に駆り立て、すぐに商品化・実用化できる応用研究を優遇している印象を受けます。

産業革命期にイノベーティブな研究をしていた牧師さんたちとはまったく異なる条件下で、日本の大学関係者は研究せざるを得ないのだと思います。ある程度の「ゆとり」がイノベーティブな研究には欠かせないというタレブ氏の指摘は正しいと思います。

かつて「ゆとり教育」が否定されましたが、イノベーションを起こすには「ゆとり研究」が必要という気がします。19世紀の英国の牧師たちのように安定した身分と収入があって心配事も少なく、雑事はお手伝いさんにまかせていられれば、研究もはかどるかもしれません。

大学の研究者に安定した身分と収入を確保し、助成金の申請手続きや領収書の処理といった雑事から研究者を解放するためにサポートスタッフを充実させて、研究環境を改善する必要があると思います。知的な労働に特化できるように、事務職員の専門性を高め、ティーチング・アシスタント等の助手を確保するのも有効でしょう。

博士課程の大学院生に好待遇のティーチング・アシスタントのポストを用意し、学術と無関係なバイトに励まなくてもよい環境を用意すべきです。将来の研究者である大学院生(特に博士課程)の待遇改善も急務です。

タレブ氏は次のように指摘します。

政府がお金をかけるべきなのは、研究ではなく非目的論的ないじくり回し(ティンカリング)である。

ここでいう「いじくり回し(tinkering)」とは、道具や機械や素材をいじくり回すことです。事前に目的を決めて論理的な手順に則って何かを創造するのではなく、試行錯誤を重ねながらいじくり回しているうちにいつの間にか新たな発見や発明につながることを意味します。またタレブ氏は次のように言います。

だからといって、今までの議論から「政府の助成はいっさい不要である」という結論が論理的に導けるとは思わない。私が反対しているのは、研究全般というより目的論だ。うまくいく助成のやり方はあるはずだ。政府は研究から巨大な利益を得ているものの、不幸にも、決して思いどおりにはいっていない。インターネットがその例だ。それから軍事支出がイノベーションや治療法という形になって戻ってきた例もある。問題は、役人たちのやり方が目的論的すぎるということだ(特に日本)。

インターネットはもともとネットショッピングやSNSでつながるために開発されたわけではありません。米国の国防総省が多額の資金を投じて核攻撃を受けても機能するネットワークを構築するために開発されたものです。ウーバーイーツや楽天のために米国政府が多額の資金を投じたわけではありません。

政府の公的研究助成が経済的に大きなインパクトを与えることは多いですが、必ずしも政府の意図通りのインパクトとは限りません。官僚主導の「目的論的」な研究助成ではなく、政府はお金を出すけれども研究者の自発性を尊重して「いじくり回し」を許容することがイノベーションを起こすための必要条件なのかもしれません。

最後に念押しのように「特に日本」とつけ足しているように、タレブ氏は日本の研究助成のやり方では成果が上がらないと判断しています。予算をかけている割に、予算のかけ方を誤っているので、成果が上がらないということだと思います。

すぐに商品化・実用化できる研究だけに「選択と集中」で絞り込もうとする態度が、「目的論的すぎる」という問題を生みます。今こそ競争的資金を減らし、国立大学の運営交付金を増やしたり、研究者の自由度の高い研究助成を増やしたりするべきです。公的資金による基礎研究の支援は拡充し、目先の利益だけを狙った研究に偏った状況は改めるべきだと思います。

*参考文献:ナシーム・ニコラス・タレブ 2017年「反脆弱性」ダイヤモンド社