歴史家が語るコロナ:強権政治やポピュリズム政治より民主主義

今朝(6月25日)日本経済新聞のオピニオン欄(創論)は、「コロナに揺れる国際秩序」という特集で非常におもしろかったです。日本経済新聞の海外有識者インタビューは優れています。

私の好きな歴史学者ニーアル・ファーガソン氏(スタンフォード大学)のインタビュー記事がすばらしかったです。目の前の問題にとらわれがちな実務家と異なる視点、歴史家の視野の広さと射程の長さは問題を読み解く武器になります。ファーガソン氏は次のように述べます。

各国の政策実行者は1月に事態を甘くみて、3月までにパニックに陥り、常軌を逸した行動に出た。経済の封鎖と人々の「監禁」は世界経済を壊した。将来の歴史家は、こうした対応を誤りだったと判断を下すのではないか。人類の歴史で新しい病原体を完全に根絶できたのはまれだ。我々は長期戦に備えなくてはならない。

我々は間違った国の対策をまねてしまった。(感染拡大を隠ぺいした後に)厳しいロックダウンと監視体制を敷いた中国ではなく、台湾に学ぶべきだった。検査を進め早い段階で感染経路を絶ち、台湾はロックダウンをしなかった。

長い歴史を振り返ると、短絡思考やパニックを防ぐことができることがわかります。日本は、台湾モデルよりも、中国モデルに近かったのかもしれません。「1月に事態を甘くみて、3月までにパニックに陥り」とは安倍政権の対応を指しているかのようです。

メディアがはやすように中国が勝者になるシナリオはありえない。供給サイドはテコ入れできても、消費低迷は克服できない。労働人口と生産性の低下、過剰債務の問題を抱える中国にとって、今回の危機は予想以上に深刻な影響をもたらす。

中国経済の危機は日本経済の危機につながりやすく、注視する必要があります。日本も従来型の景気対策では、経済危機から脱却できないし、無理やり日銀に株を買わせて株価をつりあげるような政策には限界があります。

新型コロナを巡る中国の対応は、86年のチェルノブイリ原発事故を隠ぺいした旧ソ連を思い起こさせた。説明責任も報道の自由もない一党独裁の体制が、自国だけではなく世界にどれだけの惨事をもたらすかを露呈した。民主国家は間違いを犯しても修正が可能だ。独裁は自己修正が利かない。

ちまたに「危機のときの強権発動や私権制限、報道の自由の制限はしかたない」という論調が見られることがありますが、それがいかに危険であり、非効率であるかを考えなくてはいけません。

中国に対し、台湾はどれだけ中華民族が民主体制と自由主義経済をうまく運営できるかを示した。新型コロナ対策ではテクノロジーを駆使した国家による市民監視に懸念が浮上しているが、台湾は技術面でも説明を徹底し、官民協力で技術を市民の自由と自治に生かしたと評価されている。

日本はもっと台湾から謙虚に学ぶ必要がありそうです。市民的自由と危機への効果的対応、そして新しいテクノロジーを濫用せずに効果的に使う方法など、台湾モデルを勉強しなくてはいけません。

日経オピニオン欄はその他にフランシス・フクヤマ氏(スタンフォード大学)とフランスのモンテーニュ研究所のドミニク・モイジ氏のインタビューも載せていましたが、共通した見解は「民主主義はまだ捨てたものではない」というものでした。

科学に基づき体系的にコロナ対策を行った台湾や韓国、ドイツは民主主義国が危機に上手に対応できた例です。他方、ロシアは強権的独裁国家が危機に脆弱だった例として挙げられます。「民主主義国家VS専制国家」でどちらが効率的かという議論は、長い目でみれば民主主義国の持つ自己修正機能が勝つという結論になると私は思います。

また、米国とブラジルのポピュリスト政権がコロナ対策で大失敗しており、ポピュリズム政治への反省が広がる契機になるかもしれません。今秋の米国大統領選はその意味でも重要です。世界を席巻した右派ポピュリズム政治家が、反知性主義(専門知を軽視する短絡的判断を好む)の限界を露呈し、コロナ危機をきっかけに世界の右派ポピュリズム政治が後退するかもしれません。日本でもコロナ危機がポピュリズム政治の危険性を人びとが認識するきっかけになればよいと思います。