チャーチル首相と菅首相の権力行使のちがい

菅首相が日本学術会議の新会員候補者6名を任命しなかったことが批判を浴びています。首相には任命権がありますが、日本学術会議が推薦した候補者が任命されなかったのは初めてのことです。

安倍政権に批判的な言動をとった学者を排除していることは明らかです。学問の自由の侵害であり、学者の発言を抑えつけるという意味で言論の自由の侵害でもあります。

日本学術会議は、文系・理系を問わず国内約87万人の科学者を代表し、「学者の国会」とも言われます。政治からの独立性が重要です。しかし、政府の批判をしたら会員に任命されないということになれば、政府に不都合なことをいわない「日本御用学者会議」になってしまいます。

学問の基礎は批判的精神だと思います。一般的に、学者は冷静かつ客観的な立場から政治を批判する傾向が強いと思います。そういった批判は、民主主義の健全さを保つのに不可欠な要素です。

露骨な政治介入で権力を行使する菅政権の政治姿勢は危険です。権力を握っている者は、権力の行使にあたっては抑制的であるべきです。最高権力者こそ謙虚さが必要です。

ジョン・アクトン卿の「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という警句は有名ですが、「安倍一強」の絶対的権力が、森友・加計学園の問題、河井前法務大臣夫妻や秋元司議員の逮捕などの絶対的腐敗を招きました。

その安倍政治を継承する菅総理も、絶対的権力を行使しています。その先には絶対的な腐敗が待っていることでしょう。「強いリーダーシップ」を求める風潮が、いつの間にか「強引さ=リーダーシップ」という変な空気を生み、トランプ大統領をはじめ世界中で強権的ポピュリズム政権を生んできたと思います。

クレメント・アトリー首相(労働党)は、同時代のライバルであるチャーチル首相(保守党)を評して次のように言いました。

チャーチルは権力の悪用の仕方を知らなかった。

チャーチル首相は、第二次世界大戦中に絶対的権力を行使しながらも、権力の悪用はしませんでした。公平な第三者どころか、ライバル政党の党首から、こう評されるのは最大級の賛辞です。

反対意見を述べた官僚を人事異動で干すようなことをやれば、健全な政策論争が成り立ちません。おべっかを使う学者や文化人、マスコミ関係者とだけ会食していたら、耳に逆らう正確な情報は入りません。権力の驕り、権力の濫用は、必ず国家と国民に害を及ぼします。

チャーチル首相のように戦時下で強いリーダーシップを発揮しつつ、権力を悪用しなかった首相を持つ国がうらやましいです。そういう首相がいない日本だからこそ、権力者に「足かせ」をはめる立憲主義が重要です。

そういえば「足かせ」といえば、話題の本「自由の命運」(早川書房、2020年)でダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンは「足かせのリヴァイアサン」という表現を使っています。

アセモグルとロビンソンは、国民の自由を守り、経済的な繁栄を維持するには「足かせのリヴァイアサン」が前提になると言います。「リヴァイアサン」とは強力な国家のことですが、国家が強すぎると「専横のリヴァイアサン」となって独裁政権になり、国民の自由が侵害されます。他方、国家が弱すぎると「不在のリヴァイアサン」となり、無政府状態と無秩序に堕してしまいます。

独裁国家(専横のリヴァイアサン)と無秩序(不在のリヴァイアサン)の中間の狭い回廊に存在するのが「足かせのリヴァイアサン」です。「足かせのリヴァイアサン」の状態では、国家が強すぎず弱すぎず、国会と社会のせめぎ合いとバランスのなかで、自由と繁栄が維持できる、と両氏は主張します。

国家というリヴァイアサンに足かせをはめるのが立憲主義です。足かせを外そうとしてきたのが、安倍政権であり、それを継承した菅政権ということになるでしょう。「専横のリヴァイアサン」に足かせをはめるのは、憲法であり、国会(とりわけ野党)であり、メディアであり、市民社会であり、アカデミック(学界)です。

安倍政権以来、国会を軽視したり、放送法でテレビ局を脅したり、会食や独占インタビューでメディアを懐柔したりと、自民党政権はリヴァイアサンの足かせを弱める方策を次々に繰り出してきました。そして次に照準を定めたのが、学問の世界です。政府に批判的な学者を排除して、批判的な思想や意見を抑圧しようとする菅政権の姿勢は危険です。