オープンな議論が分断の政治を招く

フランシス・フクヤマ氏の近著「リベラリズムへの不満」(新潮社)を読んで驚いたことがあります。大雑把に要約すると「議会における開かれた議論が、政治の分断を招き、熟議や妥協の政治から遠ざけた」ということです。そうなのか!?

近年、あらゆる面で透明性と説明責任の向上が強く求められている。この要求は、議会や行政機関などの公的機関に始まり、カトリック教会、ボーイスカウト、企業、非政府組織(NGO)など、民間組織のガバナンスにも及んでいる。透明性がなければ、説明責任は果たせない。腐敗した役人、虐待を行なう指導者たち、児童ポルノ製作者、性的人身売買者は、秘密のヴェールの後ろに隠れることができる。実際、透明性は多くの人々にとって、少ないよりも多い方が常に良いという、無条件の善と見なされている。

⇒私も「無条件の善」に近いと思い込んでいました。最近の役所は情報公開を恐れて、公文書を作成しないか、すぐ破棄していますが、そういう弊害はあってもやはり「無条件に近い善」だと思っていました。しかし、、、

プライバシーと透明性は一定の状況下では相互に補い合うが、しばしば対立する。完全に透明であったり、プライバシーの必要性を排除できるリベラルな社会は存在しない。完全に透明な世界では、熟慮や交渉は存在し得ない。家を買う人は、自身の側の不動産業者と最終的な提示価格について話し合った内容を売り手に知られたくはない。採用や昇進に関する議論において、候補者を含むすべての人に率直な意見が知られてしまうなら、誰も正直に話すことはないだろう。いわゆる「チャタムハウス」と呼ばれるルールは、非公開の会合で、参加者に率直な発言を促すために用いられる。

⇒有名な「チャタムハウスルール」は、イギリスの王立国際問題研究所が1927年に導入した議論のルールだそうです。議論を呼びそうなテーマについての討論やパネルディスカッションのときに用いられ、そこで得た情報を外部で利用することは可能ですが、誰がどんな発言をしたかは外部で明らかにしてはいけないというルールです。

インターネット時代にはちょっとした発言があっと言う間に広まり、責任を問われるので、どうしても慎重な発言しかできなくなり、自由闊達な議論はむずかしくなります。チャタムハウスルールは、自由闊達な意見交換を促すために、オープンな議論をオフレコで行うもので、「透明性が無条件の善」という発想とは逆です。

米国では、連邦諮問委員会法や政府会議公開法などの多くの法律が、ウォーターゲート事件をきっかけに1970年代に制定された。毎日二十四時間のテレビによる議会中継とともに、これらの義務化された透明性規則は、行政府と立法府の両方において熟議がなされなくなった原因として広く批判を受けてきた。

⇒不勉強ながら私は、情報公開が「熟議がなされなくなった原因として広く批判を受けてきた」という事実を知りませんでした。

しかし、よく考えてみると、当然です。閉ざされた密室の交渉であれば、対立する政党間でお互いのメンツを立てながら妥協や取り引きもできます。オープンな議論になれば、建前論に終始してお互いに引くに引けなくなります。妥協すれば、必ず党内の強硬派から突き上げられます。しかし、二つの政党の主義主張が異なるときに、どこかで落としどころを探ろうとすれば、建前の議論だけでは決着がつきません。

論争のある政治課題といのは、どちらかが100%正しくて、他方が100%まちがっているというケースは稀です。それぞれ言い分があり、大義があり、合理性があり、それでも意見が異なり、どこかで国民全体の利益を考えて妥協しなくてはいけないタイミングがあります。オープンな議論を「無条件の善」と考えてしまうと、話し合って妥協することはむずかしくなる可能性が高いです。

またオープンな場で政治家が主張すると、テレビカメラを意識して、カッコいいことや勇ましいことを言いがちです。デリケートで計算しつくした発言が要求される外交課題においても、政治家は有権者に受ける「毅然とした態度」をとりがちです。日比谷焼き討ち事件のころから有権者は対外的な強硬論に熱狂しがちです。政治家は冷めた目で国益を追求すべきですが、人気取りに走って強い意見を言いがちです。外交交渉はオープンにやるものではなく、ある程度は密室の議論が必須です。

そう考えると、昔から批判されてきた「国対政治」にもメリットはあるかもしれません。国会議員は、政党が異なっても、アプローチ(手段)は異なっても、「日本国と国民の最善の利益のために働いている」という共通の目的意識を持っていると信じたいものです。しかし、何もかもオープンになるテレビ政治・インターネット政治の時代は、「敵」と「味方」にはっきり分けて議論し、話し合いによる妥協や譲歩がむずかしくなったと言えるでしょう。自らの主張を声高に訴えるだけで、まったく聞く耳を持たない国会論戦を生んだのは、テレビ政治・インターネット政治の弊害かもしれません。

また、パレスチナ和平などの成功した和平交渉の多くは、紛争当事者が第三国の人里離れた離島のリゾートホテルや田舎のお城に集まり、メディアから隔絶された環境で何週間も缶詰になって話し合い、いっしょに食事をしたりビリヤードをしたりして人間的な関係を築いた上で、合意に達しています。おそらくオンライン会議では、和平交渉は成功しないと思います。

分断された社会を修復する政治をつくっていくためには、日本の政治の世界においても「チャタムハウスルール」的な議論の場を設けたり、与野党の議員がメディアのいない閉ざされた環境で話し合うという行為を再評価してもよいかもしれません。

*参考文献:
フランシス・フクヤマ 2023年 『リベラリズムへの不満』 新潮社
フレドリック・スタントン 2013年 『歴史を変えた外交交渉』 原書房