参政党の躍進を見ていて佐藤優さんが対談本で以前こんなことをおっしゃっていたのを思い出しました。
ナショナリストとして認められるためには、面倒な努力が一切、必要ありません。排外主義集団のデモに加わって、「日本は侮辱されている!」とか、「韓国人・中国人を日本から叩き出せ!」などと叫び、旭日旗を振り回したり、日の丸の手旗を振ったりすれば、それだけで立派なナショナリストです。テレビも取材に来るし、仲間たちからもほめられる。つまり、受験勉強する必要も、論文を書く必要もない。お金もかからない。ただ大声でわめき散らすだけで、だれでもすぐに「社会的な地位の上昇」が実感できるわけです。これは、なんの資産も才能もなく、これまで社会に認められたことがなかった人にとっては、たまらない快感だと思います。
この対談が行われたのは7年ほど前ですが、「日本をなめるな」と訴える参政党の人たちのことを指しているのかと誤解してしまいそうです。歴史に関する正しい知識は、排外的ナショナリストになるためには必要ありません。むしろ正確な知識や洞察力は、排外的ナショナリストの障害となります。行動力は必要ですが、知識や知性は不要です。
さらに佐藤優さんの発言は続きます。
しかも、そういうことを繰り返していくうちに、インターネットテレビの右翼番組の出演依頼が来たりして、少しはお金も稼げるようになります。隣国の民族を侮辱する言葉を怒鳴り散らすことで、食べていけるようになるのです。この仕組みの中にうまくハマると、無一文だった無名の青年が、職業的ポピュリスト、職業的ナショナリスト、職業的扇動家になってしまうのです。
学問的修養も厳しい省察も必要なく、たんに声高に中国や韓国の悪口をわめいていたら、かんたんに「職業的ナショナリスト」になれるというのは興味深い指摘です。批判的精神や自省心は排他的ナショナリストになる上で邪魔にしかなりません。哲学を学んで「すべてを疑う」人、あるいは、社会科学を学んで「批判的に見る」人は、職業的ナショナリストには向きません。
無名の売れない絵描きだったヒトラーが扇動家として成功し、ついにはドイツを支配し、世界制覇を目指して世界を塗炭の苦しみに追い込みました。
そこまでの大物ではなくても、この手の促成栽培の安手の職業的ナショナリストがユーチューブで稼いでいたり、浅薄な本を出版していたりします。不思議なことに中国・韓国に反感を持つ人は、LGBTQや男女共同参画にも反感を持つ傾向があります。
長いですが、ジョージ・F・ケナンの「アメリカ外交50年」(岩波現代文庫)に出てくる言葉も引用します。
世論あるいは世論として通用しているものは、政治のジャングルの中でいつも鎮静剤の役割を果たすとは限らないことである。世論といわれているものが、しばしば大衆の意見を全然代表せずに、政治家、評論家およびあらゆる種類の宣伝家など、非常に騒がしい少数の連中の利益を代弁しているのではないかと思う。この種の人びとは、軽率なまた盲目的愛国心をあおるようなスローガンに逃げ道を求める。というのは、それ以外のことを理解する能力をもたないからであり、これらのスローガンを掲げる方が短期的な利益を得るためにはより安全であるからであり、さらにまた、真理というものは複雑で、決して人を満足させず、ジレンマに充ちており、常に誤解され濫用されやすいものなので、観念の市場で競争するには往々にして不利な立場に立っているからである。
短慮と憎悪に基づく意見は、常に最も粗野な安っぽいシンボルの助けをかりることができるが、節度ある意見というものは、感情的なものに比べて複雑な理由に基づいており、説明することが困難なような理由に基づいている。
そこで、盲目的愛国主義者というものは、いついかなる場所を問わず、己が命ずる道を突進してゆくだけであり、安易な成果をつみとり、他日誰かの犠牲においてその日限りの矮小な勝利を刈り取り、それをさえぎる者は誰であろうと大声で罵倒し、人類の進歩を待望しながら傍若無人の踊りをおどって、民主的制度の妥当性に大いなる疑惑の影をなげかけるのである。
そして人びとが、大衆の感情を扇動したり、憎悪、猜疑および狭量の種を播くこと自体を犯罪として、おそらく民主的政府擁護に対する最悪の裏切り行為として、摘発することを学ばない限り、このようなことは、今後も引き続いて起こるであろう。
安っぽい排外的ナショナリズムをあおることは、民主主義に対する裏切り行為であり、民主主義を破壊する行為です。安手の排外的ナショナリストを政治家にしてはいけません。