お薦めの本「言葉で癒す人になる」【書評】

地味な出版社から出ている地味な本ですが、おもしろかったのでお薦めします。

ジョーゼフ・テルシュキン著、2019年「言葉で癒す人になる」ミルトス

米国のユダヤ教のラビであるジョーゼフ・テルシュキン氏の本です。ユダヤ教の「ラビ」という存在は、宗教指導者であって神父や牧師のような存在であると同時に、ユダヤ教の場合は律法学者としての意味合いもあります(たぶん)。

部外者かつ専門外の私の解釈では、ユダヤ教の信徒はたくさんの事例を覚えたり考えたりすることを義務づけられ、ユダヤ教という宗教は学問的色彩が強いように思います。タルムード(ユダヤ教の教典)の内容を丸暗記することも多く、そのことが教育熱心なユダヤ人という印象につながっていると思います。

民族別のノーベル賞受賞者のランキングがあったとすれば、ユダヤ人はピカイチの多さです。さまざまな国籍のユダヤ系の学者が、ノーベル賞を多数受賞しています。人口当たりの博士号取得者数の世界一はイスラエルだったと思います(出典忘れました)。1920年代の米国の一流大学では、ユダヤ系の学生が増えすぎて、ユダヤ系学生の割合を減らすために入学審査のやり方を変えた、と何かの本で読んだ記憶があります。

そんなユダヤ人のラビの書いた地味な本を「ミルトス」というイスラエルやユダヤ教関係の出版物に特化した出版社が出しました。「みるとす」という月刊誌も出していますが、ミルトス社や「みるとす」を知っている人は相当な「イスラエルマニア」です。「ミルトス」は、東南アジアフリークの私にとっての「めこん」に相当する出版社です(わかりにくい例えでした)。

そんなわけで、この本が売れる可能性は低いと思います。せっかくの良い本が売れないのは残念なので、勝手に宣伝したいと思います。

日本語のタイトルは「言葉で癒す人になる」ですが、サブタイトルは「ユダヤの知恵に学ぶ 言葉の賢い使い方」です。原書(英語)のタイトルは「Words That Hurt, Words That Heal」となっていますから、直訳すると「人を傷つける言葉、人を癒す言葉」です。

原書のタイトルの方が、この本の本質を表しています。「人を傷つける言葉」を避けるのも、生きていく上でとても大切なことです。特にツイッターやSNSで「人を傷つける言葉」が飛び交う昨今、ぜひ多くの人に読んでほしい本です(私自身も自省しなくてはいけません)。

この本に出てくる「癒す言葉」も「傷つける言葉」もどちらの事例もおもしろかったです。たとえばこんな事例です。

あるラビの大叔母さんのスージー氏がナチ政権下のドイツで経験した実話です。

ナチが権力の座に就いた後の1930年代、ミュンヘンに住んでいたスージーがバスに乗っていた時、ナチ親衛隊(SS)の突撃部隊がバスに乗り込んできて乗客の身分証明書を検査し始めた。ユダヤ人はバスを降りて、角に止まっているトラックに乗るように言われた。
スージーは、兵士たちが命令どおりにバスの中に入ってくるのを見ていた。彼女は震え始め、顔には涙が流れた。彼女の隣の男性は彼女が泣いているのを見、なぜ泣いているかと優しく尋ねた。
「私はあなたが持っている証明書を持っていません。ユダヤ人なんです。私は連行されるでしょう。」
男は突然、嫌悪感を爆発させた。彼は彼女を罵り、金切り声を上げ始めた。
「この馬鹿女。そばにいるだけで我慢できない」と彼はわめいた。
SSの男たちがやって来て、彼に何事かと尋ねた。
「どうしようもない女だ」
腹立たしげに男は怒鳴った。
「私の妻はまた証明書を忘れたんだ。もううんざりだ。こいつはいつもこうなんだから!」
SSの兵士は笑って、その場を立ち去った。

大叔母さんのスージーは、二度とこの男性と会うこともなく、名前も知らないそうです。

ユダヤ人を虐殺したのもドイツ人ですが、ユダヤ人を命がけの勇気と機知で救ったドイツ人もいたことがわかります。

名前も名乗らなかったドイツ人男性と同じことが自分にできるだろうか、と自問すると自信はありません。とっさの状況判断の適切さ、見ず知らずのユダヤ人女性を救うために命がけのウソをつく勇気と機知、恩着せがましく名を名乗ることもない潔さ。同じような状況の時に、この男性と同じように行動する人をめざしたいものです。

他方、ユダヤ人は迫害を受け続けた歴史があり、命を守るためのウソを推奨する文化があるように感じます。「シンドラーのリスト」もそうですが、ナチスからユダヤ人を守るために身分証明書を偽造したり、ナチスにウソをついたりした人がたくさんいます。そういった行為を称賛するのがイスラエルです。イスラエルの情報機関が世界最強といわれるのは、国家や同胞を守るための命がけのウソを推奨する文化のおかげかもしれません。日本人はスパイに向かないかも、、、

次の例は「言葉」ではありませんが、心に残るエピソードでした。

カリフォルニア州のオーシャンサイドに住む12歳の少年イアン・オゴーマンは癌と診断された。医師たちは十週間の化学療法を施し、治療期間中、頭髪はすべて抜け落ちると少年に知らせた。自分の髪の毛が徐々に抜け落ちる不安と苦痛を避けるために、少年は髪を剃った。
イアンが復学した数日後、五年生のクラスの男子十三人と担任教師までが坊主頭になって彼を迎えた。この時のイアンの気持ちを想像することができるだろう。

担任の先生とクラスメートのやさしさが伝わるいい話で涙が出そうになりました。この本には書いてありませんが、頭髪がすべて抜け落ちるほどの癌治療を受けたイアン君の余命はわかりません。イアン君は一生このことを忘れないでしょう。子を持つ親として、イアン君の親のことを考えました。きっとご両親はクラスメートに心から感謝したことでしょう。

次の話も日本ではありえないと思いますが、とてもよい話でした。

精神医学者スティーブン・マーマー博士には大学の医学生時代から大切にしてきた思い出がある。「私が大学二年生の時、ある特別講義の最中、一人の学生が立ちあがり極めて初歩的な質問をした。教授はにらみつけ、『それは馬鹿げた質問だ!』と答えた。顔を赤らめた学生は着席したが、クラスで最優秀な学生の一人が手を挙げた。より知的なコメントや質問を期待し、教授は彼を指名した。この学生はこう切り出した。「教授、このクラスに馬鹿な学生などいません。確かに私たちは無知かもしれません。しかし、それこそが、私たちがここで学ぶ理由です。あの学生とクラスに対して謝っていただきたいのです。」そう言った瞬間、他のすべての学生が拍手した。その結果、教授は授業を続ける前に謝罪した上、注意してくれた学生にも感謝した。

教授に直言した学生も立派だし、自らの誤りを認めた教授も立派です(もっとも最初から暴言を吐かなければもっとよかったですが)。

しかし、こういう場面は日本では考えにくいです。私もいろんな大学や高校でゲストスピーカーとして講演したり、非常勤講師として大学で1学期教えたことがありますが、日本人の学生は慎重で「馬鹿げた質問」を絶対にしません。

日本人の学生は「こんな初歩的な質問をしたら馬鹿にされるのではないか」と警戒し、授業中に手をあげて質問せず、授業が終わってから個別に質問に来ます。たいがい良い質問です。おそらく多くの学生が同じ疑問を持つであろう質問で、授業中に質問してほしかったなぁ、というパターンが大半です。

学生には「馬鹿げた質問」をする勇気、教授が暴言を吐いたらそれを公然と授業中に批判する勇気を持ってほしいです。そして教授には間違いをおかしたら素直に誤りを認める勇気が必要です。「人を傷つける言葉」を避ける賢明さ、「人を癒す言葉」を発する勇気を持ちたいものです。

その他にもいろんな事例が載っていて、たいへん興味深い本「言葉で癒す人になる」の紹介でした。