今年4月から小学校の英語の教科化

新型コロナウイルス危機であまり話題になっていませんが、実は今年4月1日から新学習指導要領の導入にともない、教育現場でいろいろな新しい制度が始まるはずでした。

小学校3,4年生で「外国語活動」が、5,6年生で教科としての「外国語」が導入されます。しかし、「外国語」といってもほとんどの学校で英語が教えられることになるでしょう。事実上は「英語の教科化」にすぎません。

その他に小学校で「プログラミング教育」が必修化されます。だれもがプログラミングを必要とするとは思えないので、個人的には必要ないと思います。しかし、必修化されました(といっても各教科のなかに組み込まれる形で、独立した教科ではありません)。

さらに「主権者教育」とか「消費者教育」とか、いろんな「〇〇教育」が追加され、現場の小中学校の先生たちが気の毒です。何でもかんでも小中学校の教育に責任を押しつけているようで心配です。世の中で何か問題が起きると、たいてい政治家か教育のせいにされます。教育への過度な期待の弊害については、いつか詳しく書きたいと思います。

この4月1日からスタート予定だった新教科のうち、私がもっとも問題だと思うのは小学校の英語の教科化です。安倍政権の「教育再生」の目玉政策のひとつでもあります。以前から小学校での英語の教科化には反対だったので、2016年にもブログに書いたことがあります。

*ご参考:2016年8月3日付ブログ「小学校の英語教科化は正しいのか?【私の不人気な英語教育論】

小学校の英語教科化は正しいのか?【私の不人気な英語教育論】
一般的に英語教育は保護者から人気があります。経済界も「グローバル化に向けて」という理由で、英語教育の早期化を提言してきました。「韓国や中国に負けるな」と小学校から英語を教えようという圧力は高まる一方です。ただし、人気がある政策が、効...

私の英語教育論は予想通り不人気でした。賛同の声も広がらず、それでもくじけずに「小学校の英語の教科化はやめるべきだ」と地味に主張してきました。

そんな私にとって待望の本が岩波新書から出版されました。関西学院大学准教授の寺沢拓敬氏の「小学校英語のジレンマ」(2020年2月20日刊)という本です。寺沢氏他の本の参照しながら、小学校の英語の教科化の問題点を整理したいと思います。

 

1.効果がほとんどない。

実証研究の成果の蓄積の結果として外国語教育の専門家の大半が一致しているのは、週に1、2時間程度(=年間35時間または70時間)外国語を習うだけでは、早期に始めてもほとんど効果がないということです。寺沢氏も「単に学習開始年齢を早くしただけでは効果が望めない。この事実は、国内外の研究者の間では周知のものだ」といいます。

一般的に「言語の学習は早く始めるほどよい」という“幻想”があります。母語習得と第二言語習得(外国語学習)の違いを理解していないことが背景にあると思われます(山田、2005年)。幼い頃に外国に引っ越した帰国子女の日本人が流ちょうに英語を話す例などを見て「やっぱり子どもの頃から英語を勉強しなくてはいけない」という思い込みを生むのかもしれません。

しかし、外国で幼少期をすごした日本人の子どもたちは、学校教育だけでなく日常生活やテレビなどで年に何千時間も英語のシャワーを浴びます。週に1時間(=年35時間)の英語の授業を受けるだけの日本の小学生とはまったく異なります。

ハンガリー人の言語学者のロンブ・カトー氏の「わたしの外国語学習法」(ちくま学芸文庫、2000年)という本があります。同氏は「外国語学習に費やされた時間というものは、それが週単位の、またもっと良いのは一日単位の一定の密度に達しない限り無駄であった」といいます。

帰国子女の子どもたちは、密度の濃い外国語学習をせざるを得ない環境で育つから外国語能力が高くなるのであって、早い時期から始めたからではないということです。つまり学習を始めたのが「早いか遅いか」よりも、学習量(接触量)の「密度が濃いか薄いか」が重要ということです。

くり返しますが、新学習指導要領で定められたように、英語の授業時間が、小学3,4年生で年間35時間、小学5,6年生で年間70時間といった「薄い」学習密度ではほとんど効果がありません。

逆にいえば、年に200時間とか300時間といった時間を英語教育にあてるのなら一定の効果があるかもしれません。しかし、その場合は国語や算数といった基礎科目の教科数を減らす必要がありますが、それが望ましいとは私は思いません。日本社会で育ち暮らしていくためには、小学校ではまずは国語、次に算数や社会科、理科といった科目が重要だと思います。それらの授業を削り、教員の負担を増やしてまで、小学校で英語を教える必要はありません。

 

2.英語を教える体制ができていない。

もともと小学校には英語の教科がなかったので、英語教授法を学んだ教員は小学校にはほとんどいません。まれに中学校や高校の英語教員免許を持っている人がいるくらいだと思います。

したがって、すでにいる教員に研修を受けさせたり、英語の専任教員を採用したり、といった方法で体制を整える必要があります。現状では英語の専任教員はまったく足りていません。

文科省は2018年、2019年、2020年と毎年1000人の英語の専任教員を雇用する予算を組みました。しかし、全国には約20,000の小学校があるため、3000人の英語教師では足りません。

そこで学級担任が英語教育にあたるケースが大半ということになります。英語教授法を学んでいない教員が、小学生に英語を教えるのはかなり困難です。ネイティブの補助教員を雇ったりできるところはよいですが、そうでない小学校ではたいへんです。

また、ネイティブの外国人でも、外国語としての英語教授法を知らない人はあまり戦力になりません。自分が外国人に日本語を教える場面を想像すればわかるように、外国人に母語を分析的に説明しながら教えるのは極めて高度な知的作業です。単にアメリカ人やイギリス人なら誰でも英語を教えられるわけではありません(=日本人なら誰でも日本語教師になれるわけではありません)。

結局、政府は十分な体制整備もせずに、見切り発車で小学校の英語の教科化を進めてしまいました。過った政治判断とずさんな政策決定で、現場が苦労します。

本来であれば、先に中学校の英語教育の充実を図るべきだったと思います。10年ほど前に国会で質問したことがあるのですが、中学校の英語教員の多くは英検準一級やTOEIC 730点という基準をクリアしていないそうです。TOEIC 730点というのは、高度な英語力とはいえず、やっと業務上のコミュニケーションができる程度です。平均点を見ると、高校の英語教師の方がレベルが高いので、高校の方はそれほど深刻な問題ではありません。したがって、中学校の「英語教師の英語力不足」が日本の英語教育の大問題です。まずは中学校の英語教師の研修を充実させたり、英語教師の留学を支援するのが先決だったと思います。

 

3.なぜこんなことになったのか?

どうしてこのような政策が推進されたのでしょうか。第一に世論の高い支持、第二に経済界の要請、第三に自民党および官邸の強い意向があげられます。

児童英語教育の専門家や英語教育産業からの要請はありましたが、利害関係者なので当然です。他方、教育現場や外国語教育の専門家からの強い要請があったということではありません。

第1に、世論は、小学校の英語教育を一貫して高く評価してきました。2010年12月の世論調査では87%が「小学校高学年での外国語の必修化」に「賛成」もしくは「どちらかといえば賛成」と答えています。2000年代以降に読売新聞や産経新聞等が同様の調査をしていますが、だいたい8割程度が小学校の英語教育に賛成と答えています。これくらい世論が一致して賛成するテーマは少ないかもしれません。

民意に従うという点では、安倍政権の小学校英語の教科化は適切といえるかもしれません。しかし、何でも世論調査にしたがっていれば、良い結果につながるとは限りません。国民に人気があっても、効果のない政策や誤った政策はたくさんあります。

そういうときの政治家の役割は、民意が誤った方向に向かっていると思ったら、「ちょっと待って!」と声をあげ、客観データや専門家の知見を踏まえて国民に説明し、正しい方向に世論を導くことだと思います。

国民の多数が反対する政策であっても、客観データ他の証拠に照らして正しいと思ったら、勇気をもって不人気な政策を推進すべきだと私は思います。それが本来あるべき政治的リーダーシップです。過った世論に迎合するのは、政治家失格であり、あとあと国民の利益を損ないます。

世論調査に回答した人のほとんどは、早期英語教育に関する実証研究の成果をご存じないでしょう。もし知っていれば、違う回答をしたかもしれません。あるいは、英語の授業時間数を増やすためには、他の授業時間数を減らすことにまで考えが至らなかったかもしれません。また、小学校に英語教師がほとんどいない現状をご存じなかったのかもしれません。

医療の世界でいう「インフォームドコンセント」のように、十分に情報を提供された上で、世論調査に答えれば別の結果になっていたと思います。後述しますが、小学校の英語の教科化は、熟議の上の結論でないことは確かです。

第2に、経済界(経団連や経済同友会)は早い時期からグローバル化に備えて英語教育の充実を提言してきました。グローバルに展開する日本企業で働く人材に英語力が求められるというのが経済界の発想です。「英語ができる企業戦士を養成してほしい」というシンプルな希望です。そのためには早期英語教育が有効というロジックです。経済界の提言は「早期英語教育には効果がある」という前提に立っていますが、その前提が誤っています。

経済界は英語教育に関して独自に政策提言をすることもありますし、政府の教育再生会議や経済財政諮問会議に委員を送り込んで英語教育強化の意見を言うこともあります。しかし、経団連や経済同友会の委員というのは、企業経営や経済政策については専門家かもしれませんが、教育学や外国語教育の専門家ではありません。ましてや教育財政や教育行政の知識は乏しく、教育現場の状況を踏まえた提言ではありません。

財界人は教育(外国語教育)の非専門家ですが、彼らは労働市場における「雇う側」の論理だけで提言しているわけです。小学校の英語の教科化の困難さや教育現場の窮状への配慮はまったくありません。

財界人というのは、専門外のことでも平気で政策提言します。私は「この分野は私の専門ではないので発言を控えます」と言い切る人が、本物の専門家だと思います。財界人とワイドショーのコメンテーターと政治家は、何でも発言できると勘違いしている点で専門家失格です。

第3に、多くの政治家も英語教育の早期化を主張してきました。歴代の文部科学大臣で小学校の英語の教科化に反対したのは伊吹文明元大臣くらいです(伊吹大臣は在英国日本大使館勤務経験のある知英派です)。その他の自民党文教族は、こぞって英語教育の早期化を訴えてきました。

そのなかでも安倍政権は「教育再生」を表看板とし、道徳の教科化とならんで小学校の英語の教科化が重視され、教育再生会議(および教育再生実行会議)等で議題となり、官邸主導で議論が進みました。

小学校の英語教科化は、文科省の中央教育審議会のような正式な議論の場よりも、官邸直轄の教育再生会議や経済財政諮問会議で先に議論され、一気呵成に政府の方針になりました。文部科学省や文科官僚ではなく、官邸や官邸官僚(多くは経産省からの出向)の主導で議論が進みました。

学校現場の声や英語教育専門家の声をあまり聴くことなく、財界人や教育産業の声を重視して議論が進みました。そこでは小学校の英語の教科化だけではなく、大学の英語入試の外部試験(TOEFL、英検等)の導入も決められました。

寺沢氏は、教育再生実行会議の議論の進め方を次のように述べます。

委員の顔ぶれを見ても、審議過程を見ても、教育現場・教育行政の意見や科学的・理論的な情報をすくいあげるチャンネルを欠いていた。そもそも、審議事項の量に比べて全体の審議時間は驚くほど少なかった。結局、非専門家による印象論・個人的体験をベースにした、熟議とは決して呼べない短時間の審議で、重大な改革案が具体化されたのである。

安倍政権の教育政策は、思いつきのようなものが多いです。政府は数年前から「EBPM(証拠に基づく政策形成:Evidence Based Policy Making)」という言葉を使って、客観的データや根拠に基づく政策形成を推進している、といっています。

しかし、小学校の英語の教科化、大学の英語入試の外部試験導入等に関しては、客観データに基づかず、「思いつき」や「思い込み」と「思いちがい」に基づく政策形成を進めてきました。

自民党文教族議員や官邸官僚、経済界に振り回される文部科学省も気の毒です。もっと気の毒なのは、小学校の先生たち、効果の薄い英語教育を課せられる子どもたちです。貴重な時間と予算と労力の壮大な無駄遣いです。

 

4.ではどうすればいいのか?

個人的には小学校の英語の教科化はやめて、その予算を中学校と高校の英語教育の充実に回すべきだと思います(詳しくは2016年の私のブログをご覧ください)。中学校と高校にはすでに英語の専任教員がいるので、その能力向上につとめるのがベストだと思います。

しかし、これだけ世論の支持が高いと、「小学校の英語の教科化はやめます」といってもなかなか実現しないでしょう。次善の策としては、小学校の英語専任教員の配置を増やす必要があります。また、学級担当教員が教えざるを得ない場合には、教科書や教材を工夫しつつ、教員の研修にかなり力を入れる必要があります。ただでさえ教員の多忙化で学校は「ブラック企業」といわれているなかで、英語教授法の研修を現場の教員に受けさせるのは酷です。やはり教員の定数増が必要です。

教育システムを変革するには、準備に手間と時間と予算がかかります。全国の約20,000の小学校、約10,000の中学校のすべてに影響を与えます。安倍政権の教育システムの改革はいろいろ失敗してきました。大学の英語入試の外部化や大学入試の記述試験導入など、わかりやすい失敗もありました。

何でもかんでも新しい制度が良いということにはなりません。ガラガラポンで何でも一気呵成に変えてしまうと、取り返しのつかない失敗を招くこともあり得ます。いま話題の9月入学もそうなる恐れがあります。これまでのところ安倍政権の教育改革にロクなものはありません。

ジャレド・ダイアモンドの「危機と人類」のなかで印象的だったのは、危機にあたって思い切った改革を行う際に「何を変えるべきか」「何を残すべきか」の選択の重要性です。変える必要のないものの改革に力を注ぐのは、単に無駄なだけではありません。本当に変えるべきものの改革に割く力が削がれます。

安倍政権の教育改革の多くは、変える必要のないものを変えて、変えるべきものをおろそかにしてきた、と思います。本来手をつけるべきだった教育改革とは、親の所得格差が子どもの学力格差につながっている現状を変革する教育改革です。

長い文章を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。約6,400字の小論文といってもよい長さのブログでした(オピニオン誌のひとつの投稿文くらいの長さでした)。私はツイッターはやっていませんが、明らかにツイッターには向いていません。

参考文献

・ジャレド・ダイアモンド、2019年「危機と人類」日本経済新聞出版社

・寺沢拓敬、2020年「小学校英語のジレンマ」岩波新書

・ロンブ・カトー、2000年「わたしの外国語学習法」ちくま学芸文庫

・山田雄一郎、2005年「英語教育はなぜ間違うのか」ちくま新書

・山内康一他、2007年「教育改革の改革を:教育再生会議への七つの疑問」(『世界』2007年6月号、岩波書店)