安倍政権6年半をふり返る(7):忖度の何が問題か?

安倍政権の6年半をブログでふり返る参院選特別企画の第7弾です。2017年7月10日付ブログ「忖度政治の何が問題か?【政と官のあり方】」の再掲です。すごく長いので、ご注意ください。ブログというより小論文という感じです。


忖度政治の何が問題か?【政と官のあり方】

ある人に次のような質問をされました。

官僚が政治家の指示に従うのは、当たり前じゃないですか。ずっと「官僚主導はダメだから、政治主導にしなければいけない」と言ってきたじゃないですか。忖度(そんたく)の何が問題なんですか?

良い質問です。簡単には答えられませんが、素朴で本質的な問いかけです。しかし、望ましい「政治主導」の定義を取り違えている点が問題なので、それをご説明します。

ここで政治家と行政官のあるべき関係、「政と官」のあり方という基本的なポイントを考えてみましょう。私の尊敬する政治家のひとりの後藤田正晴先生が「政と官」という本を書かれています。後藤田先生のように官僚のトップである事務の内閣官房副長官と官房長官の両方を務めた稀有の人材ならではの良い本ですが、現状を分析するには向いていません。

そこで、私の尊敬する政治学者の飯尾潤教授(政策研究大学院大学)の「日本の統治構造」(中公新書、2007年)の内容を踏まえてご説明します。この本は2007年サントリー学芸賞を受賞した本です。その後の公務員制度改革(政治主導や内閣機能強化)の方向性を決める上で、この本の果たした役割は大きいと思います。

では、本題に入ります。橋本行革以来、第二次安倍政権のころまでに日本政治の問題とされてきたのは、「官僚主導」や「決められない政治」というテーマでした。思い切った政策転換がしにくい構造が批判的に語られ、高度経済成長期型の経済や社会の構造をグローバル化時代にふさわしい構造に抜本的に変えていくことが「正義」とされる風潮でした。小泉総理の「構造改革」が多くの国民の支持を集めた時代です。

飯尾先生は「官僚内閣制」という用語を使い、「官僚内閣制」から「議院内閣制」へとバージョンアップする必要性をこの本で訴えています。そしてその後の政治や行政の仕組みは、おおむね飯尾先生の主張の通りになってきました。

先進国の政治体制は「大統領制」と「議院内閣制」に分けられます。大統領制は「二元代表制」といわれ、大統領と議会が別々に選出され、それぞれに民意を代表する正統性を持ちます。一方で議院内閣制では、議会のみが民主的に選出され、議会を基盤とした内閣が成立するため、民意が一元的に代表されます(「一元代表制」と呼びます)。

議院内閣制のもっとも重要な性質は、行政権を担う内閣が、議会の信認によって成立していることです。そして議院内閣制は、政党政治を前提としています。議会の多数派を占める政党(あるいは政党連合)が、首相を出し、その内閣を支えます。もともと議院内閣制は「議会による政府」を意味します。

しかし、中選挙区時代の日本の政治と行政は、議院内閣制の基本原理から外れる現象が多く見られました。本来であれば、衆議院選挙は、立法を担う衆議院議員を選ぶ選挙であると同時に、政権を選択する選挙という性格を持ちます。

しかしながら、55年体制のもとでは、第二党の社会党に政権獲得の意思がなく(=社会党は過半数を超える候補者を擁立せず)、「政権選択選挙」としての意味合いがありませんでした。その結果、衆議院選挙で首相を選ぶという感覚は弱く、むしろ自民党内の総裁選挙で首相を選ぶというのが実体となります。

総裁選を戦うために派閥ができ、派閥の力が強くなりました。小泉政権以前は、大臣ポストは派閥推薦で決まり、首相の人事権が制約されていました。しかも、当選回数主義で適性とは無関係に大臣が決まることも多く、かつ、ほぼ1年おきに大臣が交代することが常態化し、政治家である大臣が省内をコントロールすることはむずかしい状況が生まれました。

大臣に力も専門性もなく、大臣が単なる省庁の利益代表のようにふるまうことが多くなり、内閣としての一体感はなく、議院内閣制は機能不全を起こしやすくなります。官僚の代理人のような大臣が集まり、「官僚内閣制」と呼べるような状態が生まれました。

官僚内閣制のもとでは、最終的な意志決定者が不明確になり、「連帯責任は無責任」という体質を招きます。太平洋戦争への道も「連帯責任は無責任」という感じでしたから、戦前から続く悪習といえるかもしれません。

また、官僚内閣制では、各省の大臣や族議員など拒否権プレイヤーが多くなり、思い切った政策転換がしにくく、そのことが「決められない政治」につながりました。首相の権限が弱くなり、首相のリーダーシップが発揮できない傾向も見られました。

議院内閣制においては、政治家が立法府を構成するのは当然として、政権党政治家の一部が行政府の上層部を構成する点も重要です。行政府の方針を決めるのは、大臣などの政治家の仕事です。その方針を実施するのは、党派性を持たない官僚ということになります。

選挙によって選ばれた政治家が行政府の方針を決めるので、行政権自体は政治的に中立ということはありません。しかし、政策の実施にあたっては、法の下の平等原則をもとに、党派性のない官僚が実務を担うことが求められます。

飯尾潤先生によれば、政官関係においては、①統制の規範、②分離の規範、③協働の規範、の3つの要素が必要です。

第一の「統制の規範」というのは、責任ある政治家(大臣等)の命令には、部下の官僚は従わなくてはならない、というものです。当たり前に見えますが、かつての「官僚内閣制」の時代には、大臣の意向より、族議員の意向を重視する官僚など珍しくありませんでした。しかし、近年の公務員制度改革の結果、官邸が幹部公務員の人事権を握り、「統制の規範」は厳しくなったといえるでしょう。それ自体は悪いことではありません。

しかし、問題になるのは第二の「分離の規範」です。政党政治は党派対立になりやすく、政策実施の場面では政治的中立性を要求される官僚と政治家の間には適切な分離(あるいは相互独立)が求められます。稲田防衛大臣が都議選の応援演説で「防衛省・自衛隊としてお願いします」みたいなことを言ったのは、この「分離の規範」に反する大問題です。

政策の方針については政治主導でもいいのですが、政策の実施の現場では政治的中立性が求められます。安倍首相が「獣医が不足しているから獣医学部を新設すべき」という方針を打ち出すのは問題ないかもしれませんが、その実施にあたって官僚に対して「お友だちの加計学園の獣医学部新設を許可せよ」と指示したら問題です。また、官僚が忖度して「安倍総理のお友だちだから特別扱いしないと人事で左遷されるかも」と危惧して、政策の実施の場面で意思決定がゆがめられるとすれば、それも「忖度政治」の弊害です。

政策の企画立案の場面では「統制の規範」により、政治家の指示があっても当然のことです。しかし、政策の実施の場面では、「分離の規範」がより重要になります。もっと具体的にいえば、公共事業の発注や個別規制の緩和などの政策の実施の場面に政治家が介入するのは問題です。いわゆる「口利き」となり、行政をゆがめ、行政の効率性を落とします。森友学園や加計学園問題では、こういった「分離の規範」に反して、政治家が政策の実施の場面に介入して、お友だちに利益を誘導している点が批判されているのです。

第三の「協働の規範」は、政治家と官僚の望ましい関係という点で重要です。政策の企画立案に関しては、専門能力を持ち、雇用保障された官僚がどのように関わるかが重要です。他方、政治家がなすべき決断や指示の仕方も、民主的で公正なルールに従ったものでなくてはいけません。官僚が政治家のように政治的調整の表舞台に立つことも問題です(かつてはよくありました)。同時に政治家が官僚の領分である公共事業の個所付けなどに関与するのも問題です。政治家と官僚がそれぞれの役割をきちんとわきまえる必要があり、政治家にも官僚にも自己規律が求められます。

橋本行革、小泉政権の官邸主導モデル、安倍政権のさらに官邸主導強化モデルと、官邸(内閣官房)や内閣府の主導権は強まりました。その結果、自民党の族議員が個別に行政に口利き的に介入する弊害は以前よりも減ったと思います。

しかし、重要事項は何でも官邸で決めるという、中央集権的な意志決定システムが安倍政権では完成の域に近づいており、その弊害も考えなくてはいけません。かつての「官僚内閣制」はなくなり、各省庁の官僚の力が弱まり「官邸主導」が強化されました。しかし、それが良い結果につながっているかどうかを見極めていかなくてはいけません。

意思決定は分権的な方が機動的だし、現場の知見や地域のニーズに密着した行政ができるでしょう。地方分権が必要な時代に、官邸にあらゆる権限を集めて中央集権的な意志決定システムを強化し過ぎるのも非効率です。官邸に権限が集中し過ぎ、官僚が官邸の方ばかりを見て仕事をする点も「忖度政治」の弊害のひとつです。たかだか一大学の一学部の新設に総理官邸がからむのは、異様な光景です。

かつての「決められない政治」という言葉は、最近聞かなくなりました。いまは「決めすぎる政治」の弊害の方が目立っています。共謀罪、安保法制と、決めない方がいいことまで決めています。都議選までは、安倍一強のもとでどんな法案でも通るという状況が続き、憲法改正まで一気に行きそうな勢いでした。少数意見への配慮や十分な議論のない国会が続き、「決めすぎる政治」を抑制する方法を考えなくてはいけない時代になっているのかもしれません。

蛇足ですが、「三権分立」といいますが、日本では立法府と行政府が融合しているため、アメリカのような大統領制の国に比べ、立法府(議会)による行政府の監視は弱くなります。政権党(与党)が議会の過半数を握っている以上、与党が行政府の監視をさせないようにする傾向が強いです。さらに最高裁判所裁判官も行政府(内閣)が指名するので、司法の側でも行政府に遠慮しがちです。そもそも裁判所だって財務省に定員や庁費を予算要求する立場にあり、行政府には遠慮しがちです。

したがって、日本の「三権分立」はかなり弱い分立であり、行政府の権力をけん制するのはむずかしいのが実情です。安倍一強をなかなか止められないのは、日本の三権分立のあり方も影響しているといえるでしょう。アメリカではトランプ大統領が司法や議会から強くけん制されていますが、日本で同じことは起きにくいと思います。

では、民進党が政権の座に就いたらどうすればいいでしょうか。民主党政権時代の政官関係はあまりほめられたものではありませんでした。当時の民主党政権の問題は、「政治主導」というよりも、「政治家主導」を目指していた点でした。「政治主導」と「政治家主導」のちがいは実のところ大きいです。

政治家と官僚は、「協働の規範」に基づいて、適切な役割分担をしなくてはいけません。官僚を悪者扱いするばかりではいけません。民主党政権時代は「政務三役」といって、大臣、副大臣、大臣政務官という政治家だけであらゆる意思決定をし、政策の実施の細部まで政治家が関わろうとして失敗しました。

先ほど述べたように「政策の企画立案」では、政治家が方向性を示し、細部の制度設計は官僚や専門家の知恵を借りながら行う必要があります。そして「政策の実施」の場面では、政治家は細かいところまで指示せず、専門性の高い官僚に任せるべきだったと思います。民主党政権の大臣にはいろんな人がいましたが、きちんと官僚と折り合いをつけて実務をこなしている大臣もいる一方、官僚を敵視してその結果として官僚のサボタージュにあって仕事にならなかった大臣もいました。

将来、民進党政権ができたら、政治家は「政策の企画立案」で方向性を示してリーダーシップを発揮し、官僚は「政策の実施」で政治的中立性を守りつつ専門性をいかして仕事をする、という役割分担を重視すべきです。政治家が公共事業の個所付けや補助金、規制緩和などの「政策の実施」の細部に介入するのには歯止めをかけなくてはいけません。

当該省庁の大臣や副大臣、大臣政務官が、ある程度は「政策の実施」を管理監督するのは当然ですが、その他の政治家(政府のポストに就いていない与野党の政治家)が行政の現場の判断に介入するのは最小限にしなくてはいけません。もちろん政治家が議会の委員会で行政に関して質疑をするのは当然ですが、それ以外の密室的な場所に官僚を呼びつけて行政に介入するのはやめた方がよいと思います。

公務員制度改革の議論でも、イギリスの議員と官僚の関係を見ならって「政官接触制限」というルールを定めることが提案されていました。国会議員と官僚の接触をオープンな場所だけにとどめ、族議員による行政細部への介入をやめさせようという意見がありました。最終的には「政官接触制限」は実現しませんでしたが、その方向性は正しかったと思います。

大臣や副大臣のように行政府のポストについている責任ある立場の政治家は、行政官に指示してもかまいません。しかし、責任ある立場についていない政治家(行政府に入っていない族議員など)が、官僚に指示したり、行政の細部に口出しするのは問題です。

幹部公務員の人事権を握って、強権的なやり方で霞が関の高級官僚に言うことを聞かせるやり方も改めた方がよいと思います。イギリスの官僚制度のように自律していて専門性が高く、かつ、党派的に中立な官僚像が望ましいと思います。アメリカのように猟官制の下でほとんどの幹部公務員が政治任用というのは、日本ではまねできません。

イギリス型の公務員制度の方が日本に適していると思います。イギリスのように幹部公務員の人事権を完全に官僚機構に委ねる必要はありませんが、それでも人事権を使った専制政治は長期的に見れば悪影響の方が大きいと思います。総理官邸があらゆる幹部人事を事細かに決めるのはどうかと思います。よほどのことがない限りは、高級官僚の人事権は各省の大臣と大臣官房が決めるので十分だと思います。

そして「忖度政治」におちいらないように、いつ情報公開されても困らないように決められた手順を重視し、党派的な判断で行政をゆがめない仕組みをつくらなくてはいけません。それはそんなにむずかしいことではありません。公文書の管理や情報公開などをきちんとするには、法改正すら必要なく、政省令や通達でも対応できるでしょう。要はやる気の問題です。

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」といいます。最高権力者である首相は、権力の行使に抑制的でなければならないと思います。権力の座にいる政治家は、権力の行使にあたって強い自制心を持たなくてはいけません。キレやすく自制心の弱い安倍総理は、早く総理大臣を辞めた方が日本のためだと思います。