安倍政権6年半をふり返る(6):道徳教育は国の仕事か?

安倍政権の6年半をブログでふり返る参院選特別企画の第6弾です。安倍政権は「教育再生」を訴え、道徳教育の教科を推進してきました。森友・加計学園問題等を見ても道徳的にどうかと思う政治家や官僚がはびこるなかで、自民党の政治家が道徳教育の強化を訴えるのはブラックジョーク以外の何ものでもありません。2017年3月22日付ブログの再掲です(一部追記)。


道徳教育は国の仕事か?

政治家のなかには道徳教育が好きな人が大勢います。しかし、道徳教育を説いておきながら、不道徳なことをやる人もいます(名前は言えませんが、国会議員のなかでも具体的な顔はすぐ浮かびます)。森友学園のあの方もその典型でしょう。道徳教育の強化を主張する人にうさん臭さを感じるのは、私だけではないと思います。

そもそも「道徳教育は国家(行政)がやるべきことか?」という基本的な問いについて、私の考えを申し上げます。

安倍総理やその周辺には、道徳教育好きの右派が多く、道徳教育重視の「教育再生」を推進してきました。そもそも「教育再生」という言葉自体が、私には理解できません。「再生」と言うくらいですから、過去のある一時点で優れた教育が存在し、その教育が劣化したので「再生」しなくてはいけない、という発想なのでしょう。たとえば、「河川が生活排水で汚れたので、河川環境を再生しなくてはいけない」というのと同じ感覚だと思われます。

安倍総理やその周辺にとって美化すべき「過去の一時点」というのは、戦後ではないと思われます。戦後民主主義を批判し、「戦後レジームからの脱却」を叫ぶ安倍総理にとって、「再生」あるいは「回復」すべき過去というのは、戦前のイメージなのでしょう。だからこそ稲田防衛大臣のように教育勅語を肯定する政治家を重用してきたのだと思います。

いわば「教育再生派政治家」は、学校でいじめが問題になれば、「道徳教育を強化しなくてはいけない」と主張します。しかし、「道徳教育を強化すれば、いじめが減少する」という因果関係を証明する研究は、寡聞にして存じません。「道徳教育を行えば子どもの規範意識が高まり、その結果としていじめはなくなるだろう」という希望的観測あるいは思い込みに過ぎません。

かつて大津市の中学校でいじめ自殺が起きました。その中学校は文科省の道徳教育研究事業の実験校でした。道徳教育の実験校でも、いじめ問題は発生し、自殺にまで至っているわけです。皮肉なことに文科省が推進する道徳教育の効果がないことの実証校になってしまいました。もちろんサンプル数が少ないので学問的に正確な結論は出せませんが、「道徳教育をやればいじめがなくなる」という因果関係の証明が難しいことが再確認されました。

教育勅語で育ち、軍人勅諭を暗唱させられた軍隊において、陰湿ないじめや無意味な体罰が行われていたことを考えると、効果的な道徳教育政策は戦前も存在しなかったと思われます。

教育社会学者の研究によれば、戦前の子どもの道徳水準は、今より高水準とはいえません。戦前のエリート層や富裕層は、それなりに躾や教育に厳しかったかもしれませんが、庶民はそうでもなかったようです。

戦前回帰型(復古型)の教育再生は、おそらく道徳水準の向上に役立たないでしょう。教育勅語を幼稚園児に暗唱させることが、子どもたちの将来に良い影響を与えるとも考えにくいです。ましてキレイごとを言っていた園長先生が嘘つきだったとわかれば、人間不信の早期化・低年齢化を招くだけです。

以前に国会で「道徳教育を全国一律カリキュラムでやる国はあるのか」という質問をしたことがあります。それ対して、文科省は「韓国だけがやっている」と回答。「欧州では宗教教育をやっている」とも答えました。つまり韓国と日本を除けば、先進国で道徳教育を教科として国家が実施している例はありません。(*2019年7月10日付記:安倍総理周辺が、韓国の道徳教育の成果をどう見ているのか知りたいものです。)

欧米の先進国の人権感覚では、道徳教育は家庭や地域社会、教会の役割であり、行政機関(文部科学省)の官僚が道徳教育のカリキュラムをつくるという発想がないのだと思います。

英国などでやっているのは、責任ある市民として社会に参加するための「シチズンシップ教育」です。シチズンシップ教育は、体制に従順な国民を育てるのではなく、自分の頭で考えて判断し行動できる市民を育てる教育です。道徳教育よりもシチズンシップ教育を重視するのが、これからの日本の教育がめざすべき方向性だと思います。

そもそも道徳教育とは良心に関わることであり、思想・信条・良心の自由に関わります。国家が道徳(良心)を統制(あるいは強制)することに対し、警戒感を持つ民主主義国が大半だと思います。国家が国民に道徳を強制して恥じるところがないのは、北朝鮮のような全体主義国家です。道徳を強制することの怖さに対する恐れがないのが、森友学園の理事長のような復古的国家主義者の怖さです。

また「教育再生派政治家」の多くは、「少年の凶悪犯罪が増えている」と主張し、道徳教育や教育改革を訴えるパターンが多いです。下村博文元文科大臣も大臣在職中に「青少年による凶悪犯罪の増加などの問題に直面をしております」と発言し、教育再生の必要性を訴えていました。しかし、実際のところ少年の凶悪犯罪は増えるどころか、長期的には減少傾向です。警察庁によれば、凶悪犯少年の検挙人数の推移は、以下の通りです。

        凶悪犯    殺人

昭和33年  7,495  359

昭和47年  2,848  147

平成 3年  1,152   76

平成24年    836   46

*凶悪犯=殺人、強盗、放火、強姦

*少年=14歳以上20歳未満

少年の凶悪犯罪は減っています。特に少年の殺人事件は激減しています。少子化(少年の人数の減少)の影響を考えてもやはり減っています。いつの時代も「最近の若者はなっていない」とおじさんたちは嘆くものです。「最近の若者はなってない」と言われ始めてからおそらく3千年くらいたつことでしょう。

いつの時代も必ず道徳退廃論者は「最近の若者はなってない」と嘆きます。江戸時代の儒者も徳富蘇峰も和辻哲郎も道徳の退廃を嘆いています。しかし、江戸時代や明治大正の時代より、現在の方が道徳水準が低いとは思いません。昔に比べれば、人種差別や性差別は激減し、人権は尊重されるようになっていると思います。

過去を美化し、過去の道徳水準を取り戻そうとする人たちは、「日本を取り戻す」つもりで意気込んでいるのでしょうが、データを見る限りピント外れです。安倍総理こそ「post-truth政治の先駆者」かもしれません。道徳教育の教科化や強化よりも、英国型のシチズンシップ教育の視点を取り入れた教育を強化したいものです。それが健全な市民社会をつくることにつながります。