参政党躍進に思う(4)「政治をあきらめない」

英国の政治学者ジェリー・ストーカー氏の「政治をあきらめない理由」(岩波書店)に出てくる、世界68か国の5万人を対象にした調査によると「政治家を信用する」と答えた人はわずか13%だそうです。政治不信は世界共通の現象です。日本だけじゃありません。

ジェリー・ストーカー氏は「政治家は権力に飢えた嘘つきだという見方は我々の時代の常識である」と言います。そして「政治は本来的に失望を招くもの」と言い、次のように述べます。

多くの市民は、政治とは結局のところ集団的な決定の押しつけであり、複雑なコミュニケーションの過程を必要とし、往々にしてすっきりしない妥協を生み出すものだということを十分理解できなくなっている。政治とは失望するように仕組まれている。妥協や調整には失望がつきものである。

多くの政治決定には資源配分を伴います。政治は、誰かに利益をもたらし、誰かに負担を強いる決定を伴います。たとえば、貧困層を支援するための財源として富裕層に課税すれば、富裕層は負担が増えます。多くの富裕層が低い税率を望むのは当然です(そうでない富裕層も少なからずいる点に希望が持てます)。

少子高齢化と低成長が定着した今日、誰の負担も増やさずにみんながよろこぶ政策はほぼありません。現在の日本の政治では「利益分配」よりもむしろ「不利益分配」が重要です。そして不利益分配社会における利害調整は、みんなで痛みを分かち合う調整になりがちです。

みんなが満足というより、みんながどうにか納得するという程度のことしか期待できません。政治は、負担の押しつけ合いを伴い、複雑なコミュニケーションの過程を必要とし、すっきりしない妥協を生みます。

また政治とは、多面的で複雑な社会において、競合するさまざまな利益や意見の中から、集団としての意思を決める作業です。政治という営みは、みんなそれぞれ他人と一致しないからこそ存在します。利害や意見が対立する中で、何かを選ぶのが政治です。それは集団全体を拘束する決定なので、我々すべてに強制されます。時に妥協して折り合い、時に多数決で押し通し、異なる利害や意見を調整していく場が政治です。妥協や調整では自分の意見が100%通ることはまれで、不満は残ります。

どうにか妥協して共存するための手段が政治だとすれば、骨が折れる割にワクワクするものではなく、失望がつきものです。私は現職議員時代に国会対策を十年以上担当して他党との折衝に関わり、それを痛感しました。失望することが多かったのは事実です。

結果的に政治への不信が生まれます。政治不信は、現体制や既成政党をわかりやすく批判するポピュリズム政治の温床になりがちです。ポピュリズム政治家は、政治が持つ固有の複雑さを無視します。ポピュリズム政治家は、強力なリーダーシップを持つ自分たちが民主政治の運用につきまとう問題や面倒な制度の限界を一掃できると主張します。

ポピュリズムは、政治への不満から生まれ、明確な敵を見い出し、感情や道徳的怒りの波に乗って成長します。「われわれ」と「やつら」という対立軸をつくり、扇情的なコミュニケーションでテレビやネットメディアを利用します。ポピュリズムは不寛容で反自由主義的な形を取ることも多く、「やつら」は悪だとレッテルを貼り、妥協を拒みます。

ストーカー氏は「人間は、ほとんどの他人は(問題が的確に説明されさえすれば)自分と同じ考えを持つと勝手に決めつけるものである」と言います。しかし、多くの人は自分自身の経験を超えて考えることは難しく、自分自身の利益や環境に基づいて政治的判断を下す傾向にあり、「自分の意見が正しい」と思い込みがちです。自分の意見が受け入れられないのは、相手が理解しないせいか、悪意があるせいだと思いがちです。

しかし、ポピュリズム政治家の主張とは異なり、政治は正義と邪悪の戦いではありません。価値観や方向性、優先順位のちがいであり、善悪で切り分けられるものではありません。「やつら」が悪とは限りません。そもそも政治には妥協がつきものです。ポピュリストが言うようなわかりやすい解決策はありません。

財政が厳しい中で誰の負担も増やさずに人気を得ようと思ったら、排外的ナショナリズムに訴えるのが楽なので、ポピュリズム政治家は排外的な主張に傾きがちです。ポピュリズムが力を持つと、少数意見は尊重されず、寛容さが失われ、妥協を難しくします。他の誰かのせいにして厳しい現実から目を背けるのが、ポピュリズム政治の弊害です。

政治を再生するには、強いリーダーシップを持ったヒーローのようなリーダーを待ち焦がれるのはやめなくてはいけません。見たくない不都合な現実から目をそらさず、みんなでちょっとずつがまんして、みんなで政治に関わっていく姿勢がたいせつです。

政治への信頼を取り戻し、民主主義を機能させるためには、ひとりひとりが自省的で健全な懐疑主義者になり、傍観者にならず、政治や社会のことにもっと関わる必要があります。市民が政治や行政の意思決定にもっと参加できる機会を増やことも大切です。

また、PTA活動に参加したり、NPOの活動に参加したり、地域の問題を自分たちで解決することも、一種の政治参加です。傍観者にならず、自分の意見を政策に反映させるために行動することや、地域の問題解決に参加することが、少しずつ政治を良くします。

ポピュリスト政治家のように複雑な問題にシンプルな答えを用意する政治家は疑いましょう。何でも中国のせいにするのも、何でもアメリカのせいにするのも、何でも左翼のせいにするのも、何でも安倍総理のせいにするのも間違いです。陰謀論はたいてい間違っています。

名著の「銃・病原菌・鉄」の著者であるジャレド・ダイアモンドはこう言います。

人生は複雑である。誰かが単純な答えを出して来たら、それは間違った答えだ。複雑さを恐れずに答えを探せ。

まったく同感です。複雑さから逃げて楽な解決策をめざす人たちが、結果的により困難な状況を招いてきたのが歴史です。ユダヤ人の陰謀が世界を動かしているわけではなく、財務省の陰謀が日本を悪くしているわけではありません。世の中はもっと複雑です。ユダヤ人がそんなに優秀ならパレスチナ問題であれほど失敗しないだろうし、財務省がそんなに優秀なら国の借金はこんなに増えていないでしょう。

そして外国人やマイノリティを排除する排外的ポピュリズムや排外的ナショナリズムではなく、包摂する愛国主義が求められます。自国を愛することと他国の人に敬意を持つことは矛盾しません。国籍に関わらず民族や宗教を超えたきずなを築いていくことは素晴らしいことだと思います。

多神教の日本において「寛容さ」は、伝統的な保守派が大切にしてきたものであり、リベラル派がめざすものでもあります。日本に誇りを持つなとは決して言いません。私自身も自分は愛国者だと思っています。いまの日本社会で必要なのは、健全な愛国心をもって排外主義的なナショナリズムを無害化していく工夫だと思います。

また所得格差が広がれば、社会が分断され、政治的分断につながります。雇用の不安や生活苦のなかでは、不満や不安を外国人にぶつる動きが生まれやすくなります。ナチスが台頭した背景には世界恐慌がありました。極端な貧困のない社会、中間層が分厚い社会こそ、安定した社会であり、健全な民主主義が育つ土壌です。いまの日本は先進国のなかでも相対的貧困率が高く、不平等な社会になってしまいました。不平等が少なく、雇用が安定した社会では、排外的ポピュリズムは広がりにくい傾向があります。

排外的ポピュリズムのまん延を防ぐためには、遠回りに見えるかもしれませんが、再分配機能を強化して貧富の格差を是正し、安定した雇用や安心できるセーフティーネットを保障することが効果的です。「取り残された」とか「忘れられた」という意識を持つ国民を出さないことをめざした政治や政策が求められています。

またさらに遠回りですが、子どものころから「シチズンシップ教育」を通して、多様な価値観や文化に触れ、市民として社会に参加する方法を学ぶことも、排外的ナショナリズムを生まないための基礎となります。

排外的ポピュリズムが広がっているときに、あきらめて傍観者になってはいけないと思います。戦前のドイツでは、保守本流の財界人や軍部がナチスを見くびって利用してやろうと思ってヒトラーに近づいたら、ヒトラーにドイツを乗っ取られてしまいました。自民党の保守派も参政党を見くびって利用してやろうなどと考えていたら、参政党に自民党を乗っ取られる可能性がゼロとは言いません。アメリカの共和党もいつの間にかトランプに乗っ取られて、共和党の伝統的な政策とは程遠い法案が議会を通過するのを止められなくなりました。

大切なことは、あきらめない、軽視しない(見くびらない)、戦い続ける、ことだと思います。