日本学術会議の報告書を読んでみると

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ふと思いましたが、日本学術会議を批判している政治家は、日本学術会議の報告や提言をちゃんと読んだことがあるのでしょうか。報告や提言を読んだ上で「既得権だ」「行革だ」「廃止だ」と言っているのでしょうか。読まずに批判するのは論外という気がします。読んだ上で批判しているのなら、見識を疑います。もっとも読まずの批判している政治家が多いように思われます。

もちろん私は日本学術会議の報告書を読んだことがあります。冷静なトーンのバランスの取れた報告が多く、参考になります。たとえば、日本学術会議がマスコミの注目を集める以前にダウンロードして以下の報告書を読みました。

道徳科において『考え、議論する』教育を推進するために(報告)

2020年6月9日 日本学術会議 哲学委員会 哲学・倫理・宗教教育分科会

この報告書は「日本学術会議 哲学委員会 哲学・倫理・宗教教育分科会」の審議結果のとりまとめという位置づけです。委員長の河野哲也立教大学教授も副委員長も幹事(14名)のほとんども「連携会員」です。

幹事の一人の藤原聖子東京大学教授のみが「第一部会員」とあり、正式な「会員」です。ほとんどの審議は「連携会員」によってなされていることがわかります。

安倍政権による2015年の学習指導要領の一部改正により「道徳の時間」に代わって「特別の教科 道徳」が設置され、小学校では2018年から、中学校では2019年から完全実施されました。それを踏まえ、同報告書は次のように述べます。

日本の教育の現状に照らし、今次の『道徳教育』改訂の問題点を指摘しつつ、むしろその積極的な面を評価し、それをさらに良い方向へともたらす展望を検討した。本報告はこの審議の結果をまとめたものである。

個人的には安倍政権による道徳の教科化に反対です。したがって、私の立場からいえば日本学術会議には批判的意見を期待したいところですが、同報告書は道徳教育を否定するわけではありません。同報告書のトーンはフラットで建設的です。自民党の政治家が批判するほど「反政府的」でもありません。

他方、同報告書の指摘は的確です。「現在の道徳教育の4つの問題点」として次のように指摘します。

1.国家主義への傾斜の問題

文部科学省は今回の改訂が「愛国心」の評価につながることを否定しているものの、教科書の中には社会や他者に対する自己犠牲を美化したりナショナル・アイデンティティを強調したりする内容の教材が見られる。かつての皇民化教育の過ちを繰り返させないために、また、劇的な変化を遂げている世界に対し、国家や民族の枠を超えて貢献をなす人間を育てるためにも、道徳教育が、国家主義的な、すなわち、個人の人権が「国家の利益」とされるものの前に蔑ろにされるようなものになってはならない。

⇒まったく同感です。自国中心主義が蔓延する世界で偏狭なナショナリズムを助長するような教育は有害です。バーナード・ショーは「愛国心とは、自分が生まれたという理由で、その国が他国よりも優れているという思い込みのことである」と言いますが、おかしな愛国心の植えつけは視野を狭めるだけです。人類全体の利益と調和する「健全な愛国心」を涵養するには、バランスのとれた道徳教育をめざすべきです。同報告書の書きぶりはバランスがとれていると思います。

 

2.自由と権利の言及の弱さの問題

指導要領では道徳で教えられるべき価値として最初に「自主・自律・自由と責任」が掲げられているものの、教科書の中には個人の自由や権利の概念を明確にテーマとした内容項目がほとんどない。代わってそこには本来権利の問題として対他的社会的に検討すべき合理的配慮や性差の社会的役割などが「思いやり」などの心の問題に矮小化される「心理主義化」の傾向が見られる。これでは、個人の権利を軸に、社会の諸制度や諸規制を検討するという重要な道徳的態度が養われるか疑問である。

⇒たとえば、現行の複数の道徳教科書は、本来であれば「障がい者の権利」として扱うべき問題を、健常者の「思いやり」の問題として描く事例が散見されるそうです。

制度や規則の問題を「心理主義化」してしまうと、抜本的な解決策にはなりません。バリアフリー化の遅れで障がい者が困っている状況を「かわいそう」と思うのか、「障がい者の権利が十分に尊重されていない」と認識するかは、大きな違いです。人権の観点から見れば、後者の視点こそ大切です。

また、義務ばかりを強調し、権利を教えない傾向が、ブラック企業や「やりがい搾取」を生むのではないかと思います。自らの自由や権利を主張すると同時に、他者の自由と権利を尊重することを学ぶことが、子どもたちにとって大切だと思います。やたらと自己犠牲を強調する教育は危険だと思います。

ジャレド・ダイアモンドによると未開社会では自己犠牲という発想が薄く、近代国家が教育によって自己犠牲の感覚を植えつけたと言います。

自己犠牲も、伝統的社会と国家社会の間でみられる相違点である。自己犠牲という行為は一般に、現代の戦争では高貴な行動とみなされ、称賛される。しかし、伝統的戦争において、戦闘員が自己の命を犠牲にして戦ったという目撃例はない。現代の国家は、お国のために命がけで戦えと兵士たちにしばしば命じる。たとえば、敵陣の有刺鉄線に向かって突撃しろ、などと命令するのである。みずからの命を賭して仲間の命を救おうとする兵士さえいる。爆発寸前の手榴弾の上に身を投げて仲間の命を救おうとするのは、一兵士の犠牲行為である。第二次世界大戦中には、何千人もの日本兵が自殺攻撃によって自己犠牲を払っている。彼らは、最初は志願して、のちには上官からの指名によって、神風特攻隊の一員となり、ロケット推進型滑空爆弾「桜花」や、人間魚雷「回天」などに乗り込んで、アメリカ軍の戦艦めがけ体あたりしたのである。人をこのような行動に走らせるには、将来の兵士である子どもたちを幼少のころから教育し、従順な忠誠心を尊び、お国とその思想信条を守るための自己犠牲を尊ぶ人間に育て上げる必要がある。

*参考文献:ジャレド・ダイアモンド「昨日までの世界」日本経済新聞出版社 2013年

 

⇒人間魚雷の例は極端かもしれませんが、自己犠牲を美化する教化の危険性の一例だと思います。道徳教育は「国家のために命を捨てろ」という教化になってはいけないと思います。政治家は、道徳教育で「国を愛せ」と教え込むよりも、自然と愛情の湧く国をつくることをめざすべきです。

 

3.価値の注入の問題

現代社会には、それぞれの根拠や合理性をもった多様な価値観が併存する「道理ある不一致」と呼ぶべき状況が生じている。したがって現代の道徳教育では、特定の価値観を、無批判に普遍化・絶対化して子どもたちに押し付ける「価値観の注入」ではなく、主体的で対話的な「手続きの道徳性」を子どもたちの内に涵養することを目的とすべきである。

 

⇒価値の注入の危険性は言うまでもありません。批判的精神がないと、健全な市民社会は維持できません。「道理ある不一致」という表現はすばらしいと思います。

たとえば、政治の世界における与野党の政策論争は、「善と悪との戦い」ではありません。国会議員は、ライバル政党の政治家を「敵」と見なすのではなく、「国を良くしたいという目的は同じだけれども、それを実現する手段やアプローチについての考え方が異なる同僚」と見なすべきです。

価値観は異なっても対話が成り立つことが重要であり、「手続きの道徳性」が重要な理由だと思います。いまの総理にも「手続きの道徳性」をよくよく考えていただきたいものです。

 

4.多様性受容の不十分さへの危惧の問題

多様性は、現代社会の事実であると同時に尊重すべき価値であり、今次の道徳教育の改訂においてキーワードとなっている言葉である。特に宗教など帰属集団に基づく価値観については、マジョリティのそれをマイノリティに押し付け、後者に同調を強いる状況が生じやすい。国際化、グローバル化がすすむ日本社会ではどのようにして宗教的・文化的少数者の価値観と権利を擁護するのかも道徳教育の課題である。

 

⇒コロナ危機下の「自粛警察」騒動を見ても、日本社会の同調圧力の強さは異常かもしれません。お互いを慮ることは大切ですが、過剰な同調を求めれば息苦しい社会になります。多様性の尊重は、道徳教育で重視すべきテーマです。

 

以上のような現在の道徳教育の問題を踏まえて、同報告書は、(1)反省的で対話的な思考としての哲学的思考の導入、(2)シティズンシップ教育との接続、(3)教員の素養と教員教育、(4)教科書の検討と作成などを提案しています。

私などは以前から「道徳教育よりもシティズンシップ教育を重視すべき」というスタンスだったので、同報告書の提言に納得できます。現行の道徳教育を全否定するのではなく、問題点を正しく認識して前向きに改善していこう、という日本学術会議の報告のスタンスは正しいと思います。

詳しくは同報告書を読んでいただくのがいちばんですが、私が言いたかったことは「日本学術会議の報告は優れている」という点です。逆切れのように民営化論や縮小案を出してくる政府与党のやり方は問題だと思います。

*日本学術会議「道徳科において『考え、議論する』教育を推進するために」:

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/kohyo-24-h200609-abstract.html

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