【書評】イスラームの歴史:1400年の軌跡(前編)

この本 「イスラームの歴史:1400年の軌跡」は名著です。外交官やビジネスマン、教育者、テロ対策に関わる公安関係者、大学生、異文化コミュニケーションの専門家など、いろんな人にとって有益な本です。

「現在を理解するには歴史を学ぶべき」とか、「歴史を学ばない者は未来に見放される」とかいう格言・箴言は数多いですが、この本「イスラームの歴史」を読むとそう思います。

私は20代のころにインドネシアとアフガニスタンというイスラム教国にNGOスタッフとして駐在し、またイスラム教やイスラム社会のことをある程度は勉強してきましたが、幅広く「イスラムの通史」を読んだのは初めてです。多くの人に知ってほしい情報が満載なので、書評ブログを書き始めたら、ドンドン長くなってしまったので、2回に分けて連載します。

*ご参考:カレン・アームストロング 2017年 「イスラームの歴史」 中公新書

アメリカでベストセラーになった本書の著者のカレン・アームストロング女史は、カトリックの修道女生活をへて、ユダヤ教系の教育機関で教員を務めました。学者ではありませんが、オックスフォード大学で教育を受け、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教に関する幅広い知識を持つ人物です。

世界のイスラム教徒人口は16~17億人と言われ、英国、ドイツ、フランスなどでは住民の5~8%がムスリムです。日本でもインドネシアやマレーシアからやって来たイスラム教徒の観光客や留学生をよく見かけます。中近東はもちろんのこと、成長著しいインドや東南アジアでも、ヨーロッパやアメリカでもイスラム教徒の人と仕事をしたり、勉強したりすることも多い時代です。グローバル化が進むなかで、キリスト教とイスラム教に関する最低限の知識は、いまや社会常識の部類に入ります。

著者のイスラム教に対する姿勢はとても公平です。敬虔なキリスト教徒ですが、イスラム教徒に対する敬意とフェアな判断を忘れません。たとえば、こんな記述に感心します。

反ユダヤ主義はキリスト教徒が始めた悪行だ。ムスリム世界でユダヤ教徒への憎悪が顕著になるのは、1948年にイスラエルが建国され、その後にアラブ人がパレスチナを失ってからにすぎない。

重要な点なのではっきり言っておくが、ムスリムは反ユダヤ的な作り話をヨーロッパから持ち込まなくてはならず、『シオン長老の議定書』など悪意に満ちた反ユダヤ的文書をアラビア語に翻訳しなくてはならなかったが、それは反ユダヤ主義的な伝統がもともとなかったからなのだ。

たとえば、国際面のニュースで「ムスリム同胞団」というと、「過激なテロ組織」という印象を受けるかもしれませんが、もともとは近代化をめざす社会運動としてスタートしました。

ムスリム同胞団は、クルアーンを新時代の精神と合致するよう解釈しようとする一方で、イスラーム諸国を統合し、生活水準を引き上げ、さらに高いレベルの社会正義を実現させ、非識字や貧困と戦い、ムスリムの土地を外国の支配から解放することも目指した。(中略)

学校を建設し、近代的なボーイスカウト活動を組織し、労働者のための夜間学校と、官吏登用試験のための予備校を運営した。さらに同胞団は、農村地域に診療所や病院を建て、建設した工場では給与・健康保険・休暇などでムスリムへの待遇を国営企業よりもよくし、近代的な労働法を教えてムスリムたちが自分たちの権利を守れるようにした。

ムスリム同胞団の一部が過激化したり、その分派がテロ組織になったということはあっても、もともとは生活改善や社会福祉を主眼とした組織でした。しかも、そういった社会的な活動を今でも実施しています。ムスリム同胞団の歴史や背景を知れば、現在のエジプト政治や中東政治を理解するのに役立ちます。

たとえば、西欧や日本のような先進国の人間には「ヴェールを着用するのは前近代的だ」といった偏見をもつ人も多いと思います。しかし、イスラム圏では大学教育を受ける女性の多くが、自ら進んでヴェールを着用します。

各種の調査によると、ヴェールを着用する女性の大部分は、ジェンダーなどの問題について進歩的な意見を抱いている。女性が、農村地帯から大学へ進み、男女を問わず家族で初めて基本的な読み書きだけで終わらず高等教育を受ける者である場合、イスラーム服を着用することで連続性を感じ、近代への移行で受ける精神的ショックを、着用しない場合より小さくすることができる。(中略) またヴェール着用は、近代のあまり賛同できない側面を無言のうちに批判する行為と見なすこともできる。ヴェールを着けることで、性的なことについて「すべてをさらす」西洋の奇妙な衝動を拒絶しているのだ。

肌をあらわに露出する習慣は、西欧の近代において広まったのかもしれません。熱帯や砂漠性気候の土地で肌を露出するのは自殺行為です。「西欧の現代風の露出の多い装束を身にまとっていないといけない」というのは偏見以外の何物でもありません。ヴェールを身に着けるイスラム教徒の女性のことを他者がどうこう言うのは滑稽だと思います。フランスの世俗主義者がイスラム教徒のヴェールを非難することに対し、エマニュエル・トッドなども批判的です。この著者の書きぶりは、われわれが抱きがちなイスラム教文化への偏見に気づかせてくれます。

さらに次のように続きます。

西洋では、こんがりと日焼けして鍛え上げられた肉体を特権の証しとして見せびらかすことが多く、老化の兆しに抵抗して今の人生に執着しようとする。

ここまで言うと、逆切れ気味ですが、現代先進国文化へのユニークな批判です。自らの文化圏の偏見に囚われがちなわれわれは、こういう突き放したユーモア感覚をもたないと、物事を公平・客観的に見ることはできないのかもしれません。(後編に続く)