言語格差が招く社会の分断

築地市場の豊洲移転問題が、福岡でも連日報道されています。東京地方限定のニュースで十分だと思いますが、なぜか全国ニュースとして報道されています。国民全体が知っておくべきニュースとは思いませんが、「小池劇場」への関心の高さを反映しているのでしょう。

さて、豊洲移転問題に関して、私は本質的でないことが妙に気になります。やたらとカタカナ語が使われている点です。「環境アセス」という言葉が報道でしばしば使われていますが、正式には「環境アセスメント」のことです。まず「環境アセス」などと変に省略するのも嫌です。さらに「環境アセスメント」には「環境影響評価」というピッタリの日本語表現があります。

専門家でなくても、多くの人が「環境影響評価」ならだいたいの意味を想像できます。しかし、「環境アセスメント」だと「assessment」の意味を知らない人には、即座に理解できません。また、「環境アセス」だと英語の「assessment」を知っている人でも、ちょっと理解が遅れるかもしれません。

専門家同士が仲間内で業界用語を使うのならともかく、新聞やテレビの報道では、誰でも理解できるように「環境影響評価」という用語を使うべきだと思います。

また、地下水をくみ上げることを指して「ポンプアップ」とテレビで報道していました。これも単に「くみ上げ」ではなぜダメなのでしょうか。よりわかりやすく、より適切な日本語表現があるにも関わらず、カタカナ語で表現する意味がわかりません。

英語が社内公用語になるような日本企業も出てきて、日本社会に「英語ができる人」と「それ以外の人」という分断ができるのは恐ろしいことです。翻訳文化が高度に発展した日本では、外国語能力と無関係に世界の最先端の情報や技術に接することができ、大学教育(高等教育)も日本語で受けられます。英語を話しグローバルな話題に関心のあるエリート層とその他の大衆という分断は、これまでの日本にはなかった状態だと思います。

英語が公用語のフィリピンで生活していたときに、「英語ができる人」と「それ以外の人」という分断の怖さを実感しました。「英語ができるか否か」という分断線が、日本社会を引き裂くのを防ぐには、不用意にカタカナ語を乱用するのをやめた方がよいと思います。少なくともテレビや新聞といった公共性の高いメディアは、カタカナ語を乱用すべきではありません。

そのことを旧西ドイツのグスタフ・ハイネマン大統領がわかりやすく述べています。

私は書いたり話したりする機会があるごとに、外来語を使うかわりに、なるべくドイツ語を使いなさいと言ってきました。私がそう言うのは、特別な民族感情を示そうとしてではなく、むしろ誰にもわかるようにとの気持ちからです。私にとってこれほど大切な役割はないと思われるのは、いわゆる教養ある階層と、我らの住民の広汎な大衆とのあいだの溝を乗り越えることです。もしそんな溝ができたら、民主主義にとってたいへん危険なことだからです。

*出典:田中克彦 1981年「ことばと国家」岩波新書 142ページ

民主主義を守るためにも、カタカナ語(外来語)の乱用は気を付けた方がよいと思います。こういうことを主張する私は、けっこう保守的な国粋主義者かも。